1 方 谷 新 聞 令和3年4月20日 第9号 方谷新聞

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方谷新聞 第�号 【発行】 令和 � 年 �月 �日 【発行人】 山田方谷に学ぶ 文化人の会 【編集】 宇田川敬介 【デザイン装丁】 真栄中美樹 方谷新聞 ほうこくしんぶん 借金300億円をわずか7年で300億円の蓄財に変えた 「備中聖人」と称された山田方谷を学べる新聞です。 1 方 谷 新 聞 令和 3 年 4 月 20 日  第 9 号 が、同時に「山田方谷グッズ」が少ないことも、一つの 要因となっているのではないか。         山田方谷グッズがあれば、岡山県に来訪した観光客 がその箱を持ち、またそのお土産を配ったりグッズを 使うことで、その先でもう一度話題になるのである。 しかし、残念ながらそのような効果を現在の所では期 待できない。その為に大河ドラマ化に向けた動きの中 で、グッズの整備も急がれるのではないか。     議員連盟に参加した高梁市の近藤市長は、知名度 アップを兼ねて、山田方谷をキャラクター化した「ほう こくん」をあしらったマスクを付けて挨拶を行い「この マスクは、施設などで作っていますので、施設の人々の 助けにもなり、山田方谷の知名度のアップにもつなが り、なかなか評判が良いのです」というような挨拶をし たうえで、参加者に「ほうこくんマスク」を配った。 現在高梁市駅前の、観光協会(ツタヤ内)のお土産 コーナーには、備中松山城猫城主サンジューローのマ スキングテープなどはあるが、ほうこくんのグッズは 置かれていない。企業にしてみれば、山田方谷グッズ を作って果たして売れるのか、という疑問が残り、新 規の開発に踏み切れない場合が少なくない。その為 に、山田方谷グッズがなく、そのことか知名度が上が らず、またグッズの開発が進まなくなるという負のス パイラルに陥ってしまっているのではないか。    そのような意味では「ほうこくんマスク」のように、 行政が主導したり、または山田方谷に関連する会など が協力して様々なグッズを作って、少しでも広めても ら え ば よ い の で は な い か。           これからも、様々なグッズが出てくると思う。方谷 新聞では、新しい山田方谷グッズの情報が入り次第、 皆様にお知らせしたいと思いますので、皆様からの情 報をお待ちしております。             みんなで応援して広めよう。           「山田方谷の志に学ぶ議員連盟」の開催時、衆 議院議員会館内の会議室に、幟旗が立った。 本来国会の中は、幟旗や拡声器を使った国会 議員以外の政治活動は禁止されている。もちろ ん、国会の敷地内でのデモ行進なども、明治時代 の「大日本帝国議会」の時の民権運動などから、 変わらない伝統なのだ。その為に現在でも国会 の前の道路上での抗議活動は多く見ることがで きるが、国会の本会議場の傍聴席などは、そのよ うな政治活動はできない。          そのような中、もちろん講義や政治活動では なく、「方谷さんを大河ドラマに!」という内容 が掛かれた幟旗が、これも長柄に付けるわけに はいかないので、会館内のホワイトボードに付 けてお披露目されたのである。議員連盟の加藤 勝信会長や、逢沢一郎会長代行も、この幟旗を見 ながら「なかなかいいじゃないか」というような ことを言って目を細めた。          備中松山城天守閣と山田方谷が描かれた幟旗 は、これから高梁駅や市役所を中心に見ること ができるに違いない。なるべく数多く、それも高 梁市以外も含めて、この幟旗が立つ姿を見てみ たいと思う人は私だけではないだろう。そして、 大河ドラマに決定し、この幟旗が必要なくなる 日を待ちたいものである。          さて、議員連盟の中でも話題になったのであ るが、やはり山田方谷については、全国的な知名 度が少ないことが、大河ドラマ化の障害になっ ている。それは小説が少ないとか、学校の教科書 に山田方谷の名前が出ていないなどの話もある 私達は、 方谷の大河ドラマ化希望しています!

Transcript of 1 方 谷 新 聞 令和3年4月20日 第9号 方谷新聞

方谷新聞第 �号【発行】

令和�年�月��日【発行人】山田方谷に学ぶ文化人の会【編集】宇田川敬介

【デザイン装丁】真栄中美樹

方谷新聞ほうこくしんぶん

借金300億円をわずか7年で300億円の蓄財に変えた「備 中 聖 人」と 称 さ れ た 山 田 方 谷 を 学 べ る 新 聞 で す。

1 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

が、同時に「山田方谷グッズ」が少ないことも、一つの要因となっているのではないか。         山田方谷グッズがあれば、岡山県に来訪した観光客がその箱を持ち、またそのお土産を配ったりグッズを使うことで、その先でもう一度話題になるのである。しかし、残念ながらそのような効果を現在の所では期待できない。その為に大河ドラマ化に向けた動きの中で、グッズの整備も急がれるのではないか。     議員連盟に参加した高梁市の近藤市長は、知名度アップを兼ねて、山田方谷をキャラクター化した「ほうこくん」をあしらったマスクを付けて挨拶を行い「このマスクは、施設などで作っていますので、施設の人々の助けにもなり、山田方谷の知名度のアップにもつながり、なかなか評判が良いのです」というような挨拶をしたうえで、参加者に「ほうこくんマスク」を配った。 現在高梁市駅前の、観光協会(ツタヤ内)のお土産コーナーには、備中松山城猫城主サンジューローのマスキングテープなどはあるが、ほうこくんのグッズは置かれていない。企業にしてみれば、山田方谷グッズを作って果たして売れるのか、という疑問が残り、新規の開発に踏み切れない場合が少なくない。その為に、山田方谷グッズがなく、そのことか知名度が上がらず、またグッズの開発が進まなくなるという負のスパイラルに陥ってしまっているのではないか。    そのような意味では「ほうこくんマスク」のように、行政が主導したり、または山田方谷に関連する会などが協力して様々なグッズを作って、少しでも広めてもらえばよいのではないか。           これからも、様々なグッズが出てくると思う。方谷新聞では、新しい山田方谷グッズの情報が入り次第、皆様にお知らせしたいと思いますので、皆様からの情報をお待ちしております。             みんなで応援して広めよう。          

 「山田方谷の志に学ぶ議員連盟」の開催時、衆議院議員会館内の会議室に、幟旗が立った。 本来国会の中は、幟旗や拡声器を使った国会議員以外の政治活動は禁止されている。もちろん、国会の敷地内でのデモ行進なども、明治時代の「大日本帝国議会」の時の民権運動などから、変わらない伝統なのだ。その為に現在でも国会の前の道路上での抗議活動は多く見ることができるが、国会の本会議場の傍聴席などは、そのような政治活動はできない。          そのような中、もちろん講義や政治活動ではなく、「方谷さんを大河ドラマに!」という内容が掛かれた幟旗が、これも長柄に付けるわけにはいかないので、会館内のホワイトボードに付けてお披露目されたのである。議員連盟の加藤勝信会長や、逢沢一郎会長代行も、この幟旗を見ながら「なかなかいいじゃないか」というようなことを言って目を細めた。          備中松山城天守閣と山田方谷が描かれた幟旗は、これから高梁駅や市役所を中心に見ることができるに違いない。なるべく数多く、それも高梁市以外も含めて、この幟旗が立つ姿を見てみたいと思う人は私だけではないだろう。そして、大河ドラマに決定し、この幟旗が必要なくなる日を待ちたいものである。           さて、議員連盟の中でも話題になったのであるが、やはり山田方谷については、全国的な知名度が少ないことが、大河ドラマ化の障害になっている。それは小説が少ないとか、学校の教科書に山田方谷の名前が出ていないなどの話もある

私達は、方谷の大河ドラマ化を希望しています!

近藤市長﹁ほうこくんマスク﹂を配布

山田方谷グッズを広めよう!

2 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

過去大河ドラマ関連グッズ研究 「人は何故お土産を買うのか」ということを言ったのは、今年三月に高梁市成羽吹屋地区の文化遺産イベントにで講演をされた丁野朗氏である。          「お土産で買うものよりもおいしいものはいくらでもある。それに、写真や景色でも絶景はいくらでもあるし、自分で撮らなくてもプロのとった写真は存在する。それでも観光客は、ありきたりで、他の観光地と同じであると思っても饅頭などの土産を買い、自分で写真を撮る。これは、それぞれの人が、自分に合った思い出を求めているのである。大河ドラマの舞台はなおさらその感覚が強く、観光地やお土産品にストーリーを求め、そのストーリーを通してドラマの主人公や思い入れ のあるキャストと自分を重ね合わせてゆくのではないか」 このように、過去の大河ドラマのお土産品には、主人公やストーリーに因んだ商品が少なくない。そこで今回はお土産の中で面白いものを見てみよう。       まず、今年の大河ドラマ「青天を衝け」のお土産を見るために、東京北区の大河ドラマ館のおみやげコーナーを見てみよう。 渋沢栄一といえば、「資本主義」「一万円札」「藍玉」というようなキーワードが出てくる。そうするとパッケージが新一万円札を模した商品が出てくることになる。ストーリーというよりもキーワードに忠実な商品が出る。ティーパック、チョコレート、メモ帳、タオルなど様々なものが作られている。一方「藍色」ということに関して言えば、月並みではあるがタオルやエコバッグなどが連なる。ただし、「ストーリー」がある土産物は少ない。                    ではその前の明智光秀を扱った「麒麟がくる」ではどうだろうか。編集長の宇田川が関わった商品として、 「華麗なる光秀」というレトルトカレーがある。これは、亀岡市湯ノ花温泉の松園荘とで作ったものであるが、

そのパッケージにストーリーを付けたことによって、大河ドラマ館の中で最も売れた商品になった。「日本で最初にカレーを食べたのは信長であった。信長は腹心である光秀のそのカレーを食べさせた。光秀は気に食わなかったのか、信長に華麗なる復習を遂げた、それが世に言う本能寺の変である。ナンノハナシ。シランケド」 もちろん、冗談であるが、この物語が受けて、戻ってからも笑いが取れたと話題になったのである。 このようにストーリーを付けることによって、職場などに戻ってからの話題性などもある。単なる思い出だけではなく、話題になって新たな人気を呼ぶことができる。そんな土産物がこれから人気になってくるのではないかと思われる。  

今までどんなグッズがあったのか

私達は、方谷の大河ドラマ化を希望しています!

銘酒「方谷」隠れた人気に

黒い瓶に至誠測怛と書かれ︑酒を

飲みながらも思いやりを持つこと

を思わせる︒それでも︑端麗で少し

甘く深みのある味は山田方谷の真

心のこもった政策を思わせる味わ

いを与えてくれるようになってい

る︒どんな肴にも適うその味わい

は︑知る人ぞ知る銘酒といわれて

いるようである︒

 このように︑方谷の味もまた物

語になるものが少なくない︒

 山田方谷グッズではどうであ

ろうか︒まだキーワードなども整

理されていないために︑様々に

﹁方谷﹂を使っている︒

 今人気なのは﹁山田方谷すごろ

く﹂子供でも山田方谷になりきっ

て時代を進めることができるば

かりではなく︑千両箱を溜めて進

めるなど︑工夫がされている︒

 また東京では最近日本酒が人

気だが﹁幻﹂といわれているのは

﹁雲中の飛龍

方谷﹂である︒

3 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

 山田方谷の大河ドラマ化を望む 100 万人を超える人々の署名はお届けした。しかし、大河ドラマ化を望むのは人間だけではない。当然に、山田方谷のような企業や備中松山の人々のような社会ならば商売も上手くゆくし団体の目的も上手くゆく。

そのような社会の実現を望む企業や団体も少なくないのである。そこで「方谷新聞」では、全国各地の「山田方谷の大河ドラマ化を望む企業や団体」の声も積極的にご紹介したい。また皆さんの声もお聞かせ頂きたいのです。     

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友に求めて足らざれば

天下に求む。

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4 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

 方谷新聞では、皆さんの山田方谷に関する熱い思いや、研究した内容、または、何か言いたいこと、山田方谷にまつわる商品の情報など、様々な皆さんの声を募集しております。なるべく多くの方に参加頂きたいので、お気軽にお声をお聞かせください。皆さんの参加お待ちしております。

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5 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

     

私達は、方谷の大河ドラマ化を希望しています!

          

 しかし、その状態を聞いた熊田恰は、自らの命を差し出すことで百五十余名の除名嘆願を行い、川田甕江に嘆願書を作らせると、君主板倉勝静のいる東の方に向かって一礼した後、見事に自刃して、玉島の街と隊員を戦火から守ったのである。 この熊田恰の自刃の話を、長瀬で聞いた山田方谷は、それまで人前では涙を流さないといわれていたにもかかわらず、人目を気にせず泣いたといわれている。

東芝が海外からの買収提案があり、その賛否両論の対立から社長が交代することがあった。政治ではないが、この山田方谷がこの立場にいたらどうなっていたであろうか。 幕末、新政府の旗を掲げた岡山藩が取り囲んだ時、山田方谷は徹底抗戦を主張する人々を説得し、反論をまとめ上げたうえで無血開城にまとめたのである。 もちろん当時は藩主板倉勝静の威光があり、それを使ったということもあるが、しかし、常に命がけで利を説き、また、これからの時代を読んで、人々を説得したということには変わりはない。これは、常に全体を広く俯瞰的に見て、至誠測怛の心を持て接した結果ではなかったか。  東芝の買収提案に関して、その内容の是非は欲はわからないが、しかし、どちらの意見であっても至誠測怛の姿勢で全体を俯瞰し、その中で自らが必要なことを慈悲の心で成し遂げていれば、このようにならなかったのではないか。 現代も至誠測怛は重要なのである。

架空政談架空政談外資の企業買収外資の企業買収

熊田恰を祀る 熊田神社

 慶応4年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いで敗北した将軍徳川慶喜は、開陽丸で大阪城を抜け出して江戸にもどってしまった。当然に老中板倉勝静も慶喜に同行することになる。 板倉勝静は、犠牲になるのは自分一人でよいと考え、熊田恰以下百五十余名を松山に帰した。大阪城から松山城までの道中、既に官軍が多くいるために、無駄な戦を避け海路玉島に向かったのである。  しかし熊田恰には運がなかった。時化で船がなかなか出ず、玉島についたときには、既に山田方谷によって松山城は降伏し、無血開城してしまった後であったのだ。 熊田恰隊は、玉島の柚木家に入り、様子を見たが、すぐに官軍側の岡山藩に取り囲まれてしまう。 除名嘆願する松山藩と、一方降伏をさせながらも、松山藩に誰も責任を取らせていない岡山藩の駆け引きは続き、緊張状態となる。この時玉島の人々は、戦になるものと覚悟したに違いない。 

劇的な桜田門外の変 4月 19日に放送された大河ドラマ「青天を衝け」は、坂下門外の変を扱った。坂下門外の変は、山田方谷にとって一斎塾の後輩である大橋訥庵が斬奸趣意書を書いたことで有名だ。

 玉島の人々は、明治3年に玉島の鎮守であった歯黒神社内に、玉島の街を戦火から守った熊田恰の遺徳を慕って、神社を建立している。 今でも玉島の地では熊田恰と熊田神社を祀る人は少なくなく、建立百周年記念では熊田恰を主人公とした演劇が講演されるほどである。 この神社、山田方谷にとっては、うまくいったと思った無血開城に、見落としがあったという自分を戒める神に映っていたのかもしれない。 なお、熊田神社の写真は、編集長宇田川が4月上旬に参拝した時の写真であり、涙雨に濡れていた。

 このコーナーは、もしも今、山田方谷が生きていてその場面にいたらどうなっていたかということを想像して楽しむ企画である。 

渋沢栄一などは、尾高長七郎がそこに与しようとしていることを知り、必死に思いとどまらせる。 「安藤信正一人を倒して何になる。幕府そのものを変えなければ」という渋沢栄一のセリフは、この時代の人々が全て共有していたものではなかったか。ほぼ同時代に、山田方谷は、藩主板倉勝静に対して、3 回目の選択はできないという発言をしている。立場は違っても、幕府の在り方に危機感を感じていたことは明らかであろう。 坂下門外の変の報せを聞き、山田方谷は藤田東湖が生きていればと嘆いたという。 大河ドラマは、これから幕末の攘夷と尊王討幕が繋がってくる。そして方谷も課題にした「身分とは何か」ということへの疑問と解消へとつながってゆく。 「青天を衝け」も応援して幕末を楽しみたい。

6 方 谷 新 聞 令和 3年 4月 20日  第 9号

 近藤勇と山田方谷が親しく交友していたという記録はない。しかし、何らかの形で、近藤勇と山田方谷は、少なくともお互いを気にしていた存在ではなかったかと思われる。近藤勇という人は、一面で山田方谷とよく似ているといえる。 まず共通項を見てみると「農民出身」「幼いころから鍛錬」「幼い頃に生みの親と離れる」「谷兄弟と知り合う」「佐幕派の幕閣の懐刀になる」というところであろうか。 さて、近藤勇が歴史の表舞台に出るのは、文久時代、新選組になり、芹沢鴨などを暗殺し、池田屋事件などで名を挙げた頃である。そのころ、元備中松山藩士の谷三十郎の末弟谷周平を養子にしている。池田屋事件では、養子になった谷周平を伴っている。いずれも文久3年の事である。 この時期、新選組は京都守護職であった会津藩主松平容保のお抱えになており、老中首席であった板倉勝静などとも様々な交流があり、その意味で、元松山藩士の谷周平を養子にしたことは、ある意味で政治的な考えがあったに違いない。 さて、この次期、十四代将軍の徳川家茂は京都で孝明天皇と毎日のように一緒にいたため、老中である板倉勝静も京都にあった。文久三年四月に板倉勝静は山田方谷を呼び寄せ、京都で老中顧問として活躍させている。同じ時期に谷周平が近藤勇の養子になっていたことは全く関係がないとは言いづらいのではないか。 また、後の話になるが、板倉勝静は江戸無血開城後も奥羽越列藩同盟、そして、五稜郭と転戦するが、その時には新選組も同行し、共に戦うことになる。事前に板倉勝静が彼らのことを知らなければ、そこまでの信頼関係は生まれなかったのではないか。最も、五稜郭の時には、既に近藤は板橋宿の刑場の露と消えているのであるが。 もう一つ、近藤は大石内蔵助を尊敬していた。また新選組の隊服を製作する際、近藤は赤穂浪士の装束を真似た羽織、袴を発案したと言われている。大石内蔵助が松山城の城代をしていたことも有名である。ある意味で、近藤勇は松山藩を慕っていたに違いない。

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 京都において、新選組の組長と山田方谷が酒を酌み交わし天下を語るなどということは、記録になくても十分に考えられることなのではないか。そのような中で、備中松山藩を所払いされた谷兄弟を気遣い、末弟の養子縁組に力を貸し、また板倉勝静や松平容保、当時将軍後見職をしていた徳川慶喜などと縁を結ぶように、山田方谷が動いたとしても何の不思議もないのではないか。 平成23年に、近藤勇のものと思われる、頼山陽の漢詩が見つかっている。「只應晦迹寓牆東、喋喋何隨世俗同。果識英雄心上事、不英雄處是英雄」、ただひたすら隠棲し、世俗を語らぬこと。英雄らしからぬことこそ英雄なのである、という内容である。山田方谷の晩年がこの漢詩のとおりであり、近藤勇はその域に達する前に無くなってしまっている。頼山陽は備中松山藩に来ており、松山藩の奥田楽山などと交流がある。近藤勇の所にこのような漢詩があることも、何か深い縁を感じるのではないか。歴史には記録にない真実も少なくないものではないか。

近藤

 まだ幼い子供である山田方谷が、丸川松隠の下で学んでいたころ、客人から「幼い子が何のために学ぶのか」と聞かれた。 まだ、学問が「金持ちの道楽」と言われた時代の事、早く父に習って手に職を付けるべきとも思ったのか、意地悪な質問をしたものである。その時に幼い山田方谷が答えた言葉が「治国平天下」である。 この言葉は、当時の学問の教科書である四書五経の中の「大学」に書かれた言葉であり、「天下を治めるには、まず自分の

行いを正しくし、次に家庭を整え、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである。」という意味になる。 幼い子供が、国家を治め天下を平和にすることを見据えて学問に打ち込んでいるという答えをするのは、かなり驚いたであろう。 さて、この言葉は、大学に書かれた意味以上に、山田方谷が幼い頃から目的をしっかり持って学問を学んでいたということ、そして、何事も天下国家を俯瞰して、全体の中の自分、そして自分からの視点という二つの視点を持ちながら物事を考える事が重要であるということであり、山田方谷の学ぶ姿勢を示している。 このようにして学んでいるから、山田方谷の藩政改革は全て目的意識がブレずに、しっかりとした考え方の下に実行され、結果を残しているのではないか。 さて、現代に生きる我々は、目的がぶれずに目的意識をもって仕事をすることができているだろうか。

基礎から学ぶ山田方谷

「治国平天下」「治国平天下」「治国平天下」