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EDITORIAL EDITORIAL 04 OFF SEASON magazine 05 OFF SEASON magazine relax, refresh, rejoice in life. ISSUE NO.09 AFTER AUTUMN/BEFORE WINTER 2016 relax, refresh, rejoice in life. ソロ活動の他、さまざまな音楽プロジェクトを行うトミー・ゲレロ。レイ・バービーなど 5 人のスケーターによ るバンド、BLKTOP PROJECT(ブラックトップ・プロジェクト)もその一つだ。今年、8 年ぶりのセカンド・ア ルバム『コンクリート・ジャングル』をリリースして、日本ツアーを行った —— 今号の特集は、"SLIDE" と題してサーフィンと スケートをテーマにしています。スケートシーンを代 表するミュージシャンといえばトミー・ゲレロかと思 います。今まで、どのような音楽に影響を受けてきま したか? あらゆるタイプの音楽を聴いてきたよ。俺の原点は パンクなんだ。そこからロック、ソウル、ファンク、 ジャズ、ヒップホップなどあらゆる音楽にインスパイ アされるようになった。俺が子供のころに聴いてアツ イ気持ちになった音楽は、今聴いても興奮するんだ。 例えばバッド・ブレインズ、ラモーンズなどの初期の バンク・バンドなんかがそうだね。そこから進化して ヘヴィ・メタルを聴くようになったり、同時に '80 年 代初期のザ・キュアー、ジョイ・ディヴィジョン、ニ ュー・オーダーなどのバンドにものめり 込んだ。ヒップホップが西海岸にやって きた '80 年代からヒップホップに夢中に なって、スケート・コンテストに出演す るときは必ずパブリック・エナミーを流 してもらった。日本で開催された 1989 年のスケート・コンテストに出場した時 も、パブリック・エナミーを BGM に使 ったのを覚えてる。ヒップホップでは その他にエリック・B・アンド・ラキム、 KRS・ワンなども大好きだね。'80 年代 後半から '90 年代初頭にヒップホップに のめり込むんだことがきっかけで、ソウ ルやファンクをまた聴くようになった。 ビル・ウィザーズに多大な影響を受けた ね。そこからグラント・グリーン、フレ ディ・ハバード、ジョン・コルトレーン、マイルス・ デイヴィスなどのジャズを聴きまくった。音楽を聴く プロセスは常に変化しているし、成長してるんだ。音 楽というのは、自分の気分や心情に大きな影響を与え る力を持ってる。俺はあらゆるスタイルの音楽が大好 きだし、嫌いなジャンルの音楽なんてないよ。 ——あなたとスケートは切っても切り離せないと思 いますが、どのような関係性がありますか? スケートも音楽も、俺の人生には欠かせないものだ ね。スケートも音楽も、俺にとって大切な表現方法な んだ。それに、スケートをするときも、音楽を演奏す ることも心を癒す効果があるんだ。俺はクリエイティ ブ・モードに入ってる時が一番楽しいから、そういう 意味で音楽は大切なんだよ。音楽とスケートが、俺の 人生の存在意義だよ。 ―― 音楽(作曲)のインスピレーションを受けるの はどのような時ですか? やはり、スケートをしてい るときですか? いや、スケートをしているときに音楽のインスピレ ーションが湧いてくるわけじゃないんだ。時間があっ て、ビジョンがあれば、とにかくプランを立てないで 音楽を作り始めるんだ。常にあらゆるところからイン スピレーションを受けてるよ。ラジオを聴いてるとき に、流れてくるギター、ベースの音色に触発されるこ ともあれば、ドラム・パターンを聴くだけでアイデア が湧き上がってくることもある。でも、一番大切なの は、時間を作れるかどうかだね。 時間だね(笑)。時間こそ人生なんだよ。子供がい たり、家族がいたり、友達、彼女、人間関係もあるわ けで、どれにも時間、愛情、エネルギーを注ぐ必要が あるんだ。だから、ずっと自分の世界にこもって音楽 を作ってるわけにはいかないんだよ。自分の子供、友 達、パートナーと健全な関係を保つためには、音楽ば っかり作ることはできないんだ。それに、仕事をや りながら音楽をやる場合は大変だよね。日常生活で は、いろいろな側面のバランスをとらないといけない んだよ。だから、人生は難しいよね(笑)。 —— サーファーのファンも多いですが、それについ てどう思いますか? トーマス・キャンベルのギャラクシア・レーベルか ら俺は音楽をリリースし始めたんだけど、それがきっ かけで、サーフシーンの連中が俺の音楽を聴くように なったんだと思う。それにトーマスが手がけたサーフ ・フィルムで俺の音楽をサントラとして使うようにな ったから、サーファーが俺の音楽に慣れ親しむよう になったんだ。 ——さまざまな音楽活動を精力的に行っていますが、 BLKTOP PROJECT(ブラックトップ・プロジェクト) はどのようなユニットなのですか? 今後、どのよう な方向に発展していきますか? ――リスナーがどのようなシチュエーションで聴く ことを想定していますか? ストリートあるいはク ラブなど? 俺の音楽はクラブ向きじゃないと思うけど、どんな 場所で聴いても問題ないよ。バーで流れていてもいい と思うし、長距離のドライブとか、電車に長く乗ると きも向いてると思う。俺の音楽には独特のムードとエ ネルギーがあるから、家事をやるときにもいいんじゃ ないかな。俺の音楽を聴いてくれる人がいるだけでう れしいから、どんなシチュエーションで聴いてくれて もいいよ(笑)。 ―― いい音楽を作るのに必要なことは何だと思いま すか? トミー・ゲレロ ミュージシャン。1996 年生まれ、サンフランシスコ出身。伝説のスケート チーム「Bones Brigade」の最年小メンバーとしてスケートシーンに登場。 カリスマスケーターとして大きな影響を与えた。その後、音楽活動をスター ト。'98 年のデビューアルバム『Loose Grooves & Bastard Blues』が人気を 呼び、そのオリジナリティあふれるサウンドで多くの支持を集める 12 月7日に待望のニューアルバム『The Endless Road』(RUSH! X AWDR/LR2) をリリースするトミー・ゲレロ。新作とともにジャパンツ アーも敢行。12 月 9 日の 新潟公演を皮切りに 18 日の京都公演まで、松 本(予定)、静岡、仙台、名古屋、大坂(予定)、加古川と全国を巡る。 グルーブ&スライド感あふれるサウンドに期待 ブラックトップは、仲間と音楽を使ってコミュニケ ーションを取り合える空間なんだ。それに、ソロとは 違って一人だけで音楽を作らなくていいから、気が楽 なんだ。一人で音楽を作るよりも、もっとリラックス したスタンスで音楽に挑むことができるんだ。ブラッ クトップでは、俺の役割はベースを演奏することだか ら、それに集中できるんだ。たまにブラックトップで ギターやキーボードを演奏することもあるけど、自分 一人に頼る必要がないんだ。それに、仲間とコラボレ ーションすることも大好きだし、部屋で一人で曲作り をするよりも、仲間とジャム・セッションをする方が ずっと楽しいんだ(笑)。一人で音作りをすると、退 屈することがある。バンドと演奏するときは、メンバ ーがそれぞれユニークなアイデアを提供してくれる から、刺激的なんだ。しかも、ブラックトップのメ ンバーは昔から友達だし、みんな優れた ミュージシャンなんだ。みんなとは強い 絆で結ばれてるし、家族のような存在だ ね。ブラックトップのメンバーともっと 演奏する時間が欲しいし、もっと作品を レコーディングしてみたいよ。 ——いよいよ待望のニューアルバム 『The Endless Road』をリリースしま すが、どのようなコンセプトで作ったの ですか?  前作よりもアップテンポな作品を作 りたかったんだ。前作がメロウなサウン ドだったから、躍動感があってグルーヴ 感を前面に押し出した作品を作りたか ったんだよ。今回は、なるべく自分一人で全部楽器 を演奏したかったんだ。だから、いつものようにギ ターやベースだけじゃなくて、ドラム、パーカッシ ョンを叩いたり、キーボードも演奏した。2曲だけ チャック・トリースがドラムで参加していて、それ 以外は一人で演奏したよ。他のドラマーがいない状 態で、ここまで一人でドラムやパーカッションを叩 いたのは初めてだったんだ。 ——アルバムに込められたメッセージは? 流れに身を任せよう、ということかな。今回のア ルバムの聴きどころは、アフロ・ファンクやアフリ カのブルースの影響が多く反映されてることだよ。 ——この冬、日本でツアーを行いますが、ファン にメッセージをお願いします。 今回のジャパン・ツアーのライブでは、前半は ソロでライブ演奏をしてから、後半は DJパーティ ーをやるんだ。ライブでは、ループ・ペダルを使っ て自分の曲を再現するよ。俺が DJするときは、古 いファンクとソウルの7インチや、自分の新曲を7 インチでプレイする予定なんだ。ファンに伝えたい のは、アルバムを気に入ってくれることを願ってる よ! ぜひライヴを見にきて欲しい。会場に来たフ ァンと会話するのが楽しみだね 。 TOMMY GUERRERO SLIDE 01 "Tommy Guerrero is very popular among surfers and skateboarders. His music sounds mellow and groovy, and the word “SLIDE” is quite suitable for his music. We interviewed him about his music and Japan tour coming in December. Interview: Hashim Bharoocha Photos: Taisuke Yokoyama Claudine Gossett "

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Page 1: ISSUE NO.09 EDITORIAL OFF SEASON magazine …offseason.jp/vol9_sample.pdfSLIDE 01 まさにメロウでグルーヴ感あふれる音楽は、スケーター、サーファーともに人気が高いトミー・ゲレロ。"

EDITORIALEDITORIAL04 OFF SEASON magazine 05OFF SEASON magazine

r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .ISSUE NO.09 AFTER AUTUMN/BEFORE WINTER 2016r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .

ソロ活動の他、さまざまな音楽プロジェクトを行うトミー・ゲレロ。レイ・バービーなど 5 人のスケーターによるバンド、BLKTOP PROJECT(ブラックトップ・プロジェクト)もその一つだ。今年、8 年ぶりのセカンド・アルバム『コンクリート・ジャングル』をリリースして、日本ツアーを行った

—— 今号の特集は、"SLIDE" と題してサーフィンとスケートをテーマにしています。スケートシーンを代表するミュージシャンといえばトミー・ゲレロかと思います。今まで、どのような音楽に影響を受けてきましたか?

 あらゆるタイプの音楽を聴いてきたよ。俺の原点はパンクなんだ。そこからロック、ソウル、ファンク、ジャズ、ヒップホップなどあらゆる音楽にインスパイアされるようになった。俺が子供のころに聴いてアツイ気持ちになった音楽は、今聴いても興奮するんだ。例えばバッド・ブレインズ、ラモーンズなどの初期のバンク・バンドなんかがそうだね。そこから進化してヘヴィ・メタルを聴くようになったり、同時に '80 年代初期のザ・キュアー、ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダーなどのバンドにものめり込んだ。ヒップホップが西海岸にやってきた '80 年代からヒップホップに夢中になって、スケート・コンテストに出演するときは必ずパブリック・エナミーを流してもらった。日本で開催された 1989年のスケート・コンテストに出場した時も、パブリック・エナミーを BGM に使ったのを覚えてる。ヒップホップではその他にエリック・B・アンド・ラキム、KRS・ワンなども大好きだね。'80 年代後半から '90 年代初頭にヒップホップにのめり込むんだことがきっかけで、ソウルやファンクをまた聴くようになった。ビル・ウィザーズに多大な影響を受けたね。そこからグラント・グリーン、フレディ・ハバード、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスなどのジャズを聴きまくった。音楽を聴くプロセスは常に変化しているし、成長してるんだ。音楽というのは、自分の気分や心情に大きな影響を与える力を持ってる。俺はあらゆるスタイルの音楽が大好きだし、嫌いなジャンルの音楽なんてないよ。

——あなたとスケートは切っても切り離せないと思いますが、どのような関係性がありますか?

 スケートも音楽も、俺の人生には欠かせないものだね。スケートも音楽も、俺にとって大切な表現方法なんだ。それに、スケートをするときも、音楽を演奏することも心を癒す効果があるんだ。俺はクリエイティブ・モードに入ってる時が一番楽しいから、そういう意味で音楽は大切なんだよ。音楽とスケートが、俺の人生の存在意義だよ。

―― 音楽(作曲)のインスピレーションを受けるのはどのような時ですか? やはり、スケートをしているときですか?

 いや、スケートをしているときに音楽のインスピレーションが湧いてくるわけじゃないんだ。時間があって、ビジョンがあれば、とにかくプランを立てないで音楽を作り始めるんだ。常にあらゆるところからインスピレーションを受けてるよ。ラジオを聴いてるときに、流れてくるギター、ベースの音色に触発されることもあれば、ドラム・パターンを聴くだけでアイデアが湧き上がってくることもある。でも、一番大切なのは、時間を作れるかどうかだね。

 時間だね(笑)。時間こそ人生なんだよ。子供がいたり、家族がいたり、友達、彼女、人間関係もあるわけで、どれにも時間、愛情、エネルギーを注ぐ必要があるんだ。だから、ずっと自分の世界にこもって音楽を作ってるわけにはいかないんだよ。自分の子供、友達、パートナーと健全な関係を保つためには、音楽ばっかり作ることはできないんだ。それに、仕事をやりながら音楽をやる場合は大変だよね。日常生活では、いろいろな側面のバランスをとらないといけないんだよ。だから、人生は難しいよね(笑)。

——サーファーのファンも多いですが、それについてどう思いますか?

 トーマス・キャンベルのギャラクシア・レーベルから俺は音楽をリリースし始めたんだけど、それがきっかけで、サーフシーンの連中が俺の音楽を聴くようになったんだと思う。それにトーマスが手がけたサーフ・フィルムで俺の音楽をサントラとして使うようになったから、サーファーが俺の音楽に慣れ親しむようになったんだ。

——さまざまな音楽活動を精力的に行っていますが、BLKTOP PROJECT(ブラックトップ・プロジェクト)はどのようなユニットなのですか? 今後、どのような方向に発展していきますか?

――リスナーがどのようなシチュエーションで聴くことを想定していますか? ストリートあるいはクラブなど?

 俺の音楽はクラブ向きじゃないと思うけど、どんな場所で聴いても問題ないよ。バーで流れていてもいいと思うし、長距離のドライブとか、電車に長く乗るときも向いてると思う。俺の音楽には独特のムードとエネルギーがあるから、家事をやるときにもいいんじゃないかな。俺の音楽を聴いてくれる人がいるだけでうれしいから、どんなシチュエーションで聴いてくれてもいいよ(笑)。

―― いい音楽を作るのに必要なことは何だと思いますか?

トミー・ゲレロミュージシャン。1996 年生まれ、サンフランシスコ出身。伝説のスケートチーム「Bones Brigade」の最年小メンバーとしてスケートシーンに登場。カリスマスケーターとして大きな影響を与えた。その後、音楽活動をスタート。'98 年のデビューアルバム『Loose Grooves & Bastard Blues』が人気を呼び、そのオリジナリティあふれるサウンドで多くの支持を集める

12 月7日に待望のニューアルバム『The Endless Road』(RUSH! X AWDR/LR2) をリリースするトミー・ゲレロ。新作とともにジャパンツアーも敢行。12 月 9 日の 新潟公演を皮切りに 18 日の京都公演まで、松本(予定)、静岡、仙台、名古屋、大坂(予定)、加古川と全国を巡る。グルーブ&スライド感あふれるサウンドに期待

 ブラックトップは、仲間と音楽を使ってコミュニケーションを取り合える空間なんだ。それに、ソロとは違って一人だけで音楽を作らなくていいから、気が楽なんだ。一人で音楽を作るよりも、もっとリラックスしたスタンスで音楽に挑むことができるんだ。ブラックトップでは、俺の役割はベースを演奏することだから、それに集中できるんだ。たまにブラックトップでギターやキーボードを演奏することもあるけど、自分一人に頼る必要がないんだ。それに、仲間とコラボレーションすることも大好きだし、部屋で一人で曲作りをするよりも、仲間とジャム・セッションをする方がずっと楽しいんだ(笑)。一人で音作りをすると、退屈することがある。バンドと演奏するときは、メンバーがそれぞれユニークなアイデアを提供してくれるから、刺激的なんだ。しかも、ブラックトップのメ

ンバーは昔から友達だし、みんな優れたミュージシャンなんだ。みんなとは強い絆で結ばれてるし、家族のような存在だね。ブラックトップのメンバーともっと演奏する時間が欲しいし、もっと作品をレコーディングしてみたいよ。

—— いよいよ待望のニューアルバム『The Endless Road』をリリースしますが、どのようなコンセプトで作ったのですか? 

  前作よりもアップテンポな作品を作りたかったんだ。前作がメロウなサウンドだったから、躍動感があってグルーヴ感を前面に押し出した作品を作りたか

ったんだよ。今回は、なるべく自分一人で全部楽器を演奏したかったんだ。だから、いつものようにギターやベースだけじゃなくて、ドラム、パーカッションを叩いたり、キーボードも演奏した。2曲だけチャック・トリースがドラムで参加していて、それ以外は一人で演奏したよ。他のドラマーがいない状態で、ここまで一人でドラムやパーカッションを叩いたのは初めてだったんだ。

——アルバムに込められたメッセージは? 

 流れに身を任せよう、ということかな。今回のアルバムの聴きどころは、アフロ・ファンクやアフリカのブルースの影響が多く反映されてることだよ。

——この冬、日本でツアーを行いますが、ファンにメッセージをお願いします。

 今回のジャパン・ツアーのライブでは、前半はソロでライブ演奏をしてから、後半は DJパーティーをやるんだ。ライブでは、ループ・ペダルを使って自分の曲を再現するよ。俺が DJするときは、古いファンクとソウルの7インチや、自分の新曲を7インチでプレイする予定なんだ。ファンに伝えたいのは、アルバムを気に入ってくれることを願ってるよ! ぜひライヴを見にきて欲しい。会場に来たファンと会話するのが楽しみだね。

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孤高のストリートミュージシャン

トミー・ゲレロ

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スケーター、サーファーともに人気が高いトミー・ゲレロ。

メロウでグルーヴ感あふれる音楽は、

まさに"スライド という形容がふさわしい。

ジャパンツアーを目前にインタビューを行った。

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Photos: Taisuke Yokoyama

インタビュー=ハシム・バルーチャ

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EDITORIALEDITORIAL06 OFF SEASON magazine 07OFF SEASON magazine

r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .ISSUE NO.09 AFTER AUTUMN/BEFORE WINTER 2016r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .

いことは全く知らなかった。その頃はまだあの有名な映画『DOGTOWN & Z-BOYS(ドッグタウン・アンド・Z ボーイズ)』が公開される前だった。僕はサーフボードを壊したことを素直にはなして謝罪した。怒られることを覚悟して、いくらか弁償しなければならないだろうと思っていた。しかしジェフさんは僕がカメラマンだと知ると、弁償の代わりに自分のサーフィンを水中撮影しろと言ってきた。信じられないがそれで許してやるということであった。 ワイメアのインサイドピンボールでジェフさんのサーフィン撮影をして、フィルムを現像に出し、一緒にメキシカンフードを食べ、ビリーヤードをやりながらサーフィン、スケート、仕事、人生、いろんな話をしたのをを覚えている。とにかく自分を信じて、好きなことをとことんやれと教えてもらった。その当時ノースでは、フィルムを現像に出して仕上がり手に届くまで 1 週間かかっていた。その1週間の間、ロッキ

  000年の冬、僕はハワイ、オアフ島ノースショア  でサーフィンとサーフィン撮影に明け暮れていた。オフの日、友達から借りたサーフボードが調子よく、サーフィンが楽しくってしょうがなかったのを覚えている。 そのサーフボードはウイングのはいったスワローテールのトライフィン、少し厚めで幅は広く短いボードだった。多分年代は '70 年代ぐらいのボードで黄ばんだ古臭いずんぐりむっくりなボードだったが、小波からサイズのある波までサーフィンできる最高に調子のいいボードだった。今から思えば最近のデザインのボードとしても通用するサーフボードだった。そんな友達から借りた大切なサーフボードを僕はインサイドで岩にぶつけてしまったのだ。そのサーフボードの持ち主はププケアに住んでいるシェイパーと聞き、あやまりに行くために友達に地図を書いてもらい向かった。その当時ノースの山のププケアには広い平屋

ーやパイプラインなどノースショアのポイントで撮影をした。どのポイントでもジェフさんは一番沖で波を待ち、一番大きな波を狙っていた。ボトムで水面に手が触れるほどしゃがみ込み、アグレッシブにうごくジェフさんはかっこよくて、その姿はまさに Z ボーイズだった。 「チャー! シェイプの写真を撮影してくれないか? そしてこのシェイプ小屋の写真も撮影してくれないか? いずれこの小屋もなくなるからな…」と大声で笑いながらジェフさんは言った。僕にとって願ってもない撮影依頼だった。報酬はいくらだと聞いてきたが、僕は「お金はいらない、逆に払うのでサーフボードがほしい」と言うと笑いながら「OK」と言ってくれた。僕からすれば写真を撮影させてもらって、サーフボードまでシェイプしてもらえるなんて夢のような話だった。僕みたいな若造のカメラマンを一人前として認めてくれて、ギブアンドテイクの精神で接して

吹き込む、そんな作業であった。僕も撮影に集中して何時間たっただろうか、一気にサーフボード一本をシェイプして仕上げた。この大量生産大量消費の時代に、逆行するようにハンドシェイプで仕上げるサーフボードは唯一無二であった。

 今もジェフさんとは連絡を取りあいながら、ジェフさんのアートブックのプロジェクトを一緒にすすめている。いつできあがるのかわからないがまちどうしい。仕事に対するプライドや情熱、人生で大切なこと、いろんなことを僕に教えてくれるジェフさんは、僕にとって先生みたいな存在である。目に見えない物に価値を置き、神秘的でそれと同時に心の深いジェフさんは今もなお、僕を魅了してやまない。

の家がポツンポツンと建ち、植物がジャングルのように生い茂りオールドハワイといった感じの環境のいい素晴らしいところだった。その一番はずれにシェイプ小屋があった。小屋をノックするとサーフボードをシェイプ中だったのか真っ白に粉まみれの長髪で髭を生やした男と大きな犬が現れた。ただ者ではない雰囲気をしたその男は、ジェフ・ホー(Jeff Ho)さんだった。それが僕とジェフ・ホーさんとの初めての出会いだった。 '70 年代 アメリカ 西 海 岸 の「ド ッ グ タ ウ ン

(DOGTOWN)」を舞台に、スケートボードで革命を起こした伝説のスケートボードチーム「ゼファー・スケートボード・チーム(Zephyr Skateboard Team)」、「Z ボーイズ(Z-BOYS)」の中心人物の一人であり、「ゼファー・サーフボード(Zephyr Surf Board)」 のレジェンドシェイパーのジェフ・ホーさん、もちろんその名前は聞いたことはあったが詳し

くれて、なんて懐の深い人だと思った。 シェイプ小屋の中は物が散乱していたが、必要なものはすべて手の届くところにあるシェイプルームだった。昔にシェイプした年代物のサーフボードから最近シェイプしたものまであり、一本ずつ見せて説明してくれた。エフカイビーチでサーフィンするような短いサーフボードからワイメア用の長いガンまでそろっており、ここでシェイプしテストライドしてサーフボードを進化させているのであった。常に何か新しいことに挑戦しているようだった。ジェフさん自身用と見せてくれたサンセット用のガンは、長く重たくシャープでエアーブラシされたサーフボードはそれだけで存在感があった。まさに "JEFF HO" の魂だった。フォームを取り出しメジャーで計り、おもむろにノコギリで切り始めた。一度シェイプが始まると神がかったように集中し、僕は全く声をかけられなかった。それはまるでサーフボードにジェフさんの息遣い、魂を

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SLIDE 02Jeff Ho was a revolutionist in the world of surfing and skateboarding from late 1960’s to 1970’s. An unpredictable happening brought this man and the young photographer a big encounter.

JEFF HO/Z-BOYS伝説のZ-BOYS を作った男'60 年代末から '70 年代にかけて、サーフィンそしてスケートの世界で革命を起こした、ジェフ・ホー。ある小さな偶然が、この男と写真家の若者に大きな出会いをもたらした。

チャー◎文・写真

ジェフ・ホー

チャー写真家。万物に宿る魂、内側に存在する普遍的なものを独自の視点で捉え、ドキュメントを始め枠を超えた様々な分野で活動している。自然と共存し捉えた光は、力強く生命の輝きにあふれている。www.charfilm.com

ジェフ・ホーシェイパー、サーファー。'60 年代よりプロサーファーとして活躍。1971 年、ヴェニスビーチ(俗名ドッグタウン)にサーフショップ「ジェフ・ホー・アンド・ゼファー・プロダクションズ」をオープン。彼が手がけた革新的なスケートボードに乗る「Z ボーイズ」はシーンを席巻。トニー・アルバ、ジェイ・アダムスなどのカリスマスケーターを生んだ

カリフォルニアのコーストラインで一緒に見つけた無人の波、小ぶりだが形がよく楽しい波だった

左:映画『DOGTOWN & Z-BOYS』の1コマ。ジェフ・ホーが作った世界 Photofest/Aflo 中:丁寧にシェイプしサーフボードに魂を吹き込む 右:日が傾く頃、常連が集まってくるヴェニスのスケートパーク、ジェフ・ホーのいつもの風景

Text & Photos: Char

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EDITORIALEDITORIAL08 OFF SEASON magazine 09OFF SEASON magazine

r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .ISSUE NO.09 AFTER AUTUMN/BEFORE WINTER 2016r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .

    ィッシュ」というサーフボードをご存知だろ    うか? サーファーだったら、きっと名前を聞いたことがあるだろうし、もしかしたら乗ったことがあるかもしれない。幅が広く、テールと呼ばれる末端部分は、文字通り魚の尻尾のような形状をしていて、一般的なサーフボードとは大きく見た目が異なる。サーフボードはシェイパーと呼ばれる職人によるハンドメイドだ。基本的にオーダーメイドなので、世の中には無数とも言えるボードデザインがある。その中でも、もっともスケートボードに近いフィーリングが味わえるボードがフィッシュかもしれない。スピードが早く、細かいターンができる。バーティカルな動きにはあまり向いてはいないが、何よりも自分が思うようなマニューバができる。「まるで裸足で滑っているような感じだ。海の上で自由になれるんだ」と、フィッシュの名付け親でもあるベテランサーファー、ジェフ・チンも語っている。 フィッシュがスケートボードと相通じるのは、その生い立ちが似ているからかもしれない。フィッシュが生まれたのは 1965 年。場所は南カリフォルニアのサンディエゴだ。1960 年代は激動の時代だった。第二次世界大戦が終焉して 20 年あまり、世界は落ち着き

と安定を取り戻していた。しかし、若者達は既存の体制に疑問や不満を内包しつつあった。特にアメリカでは、ベトナム戦争を契機に若者達に火がついた。音楽、社会、アートいろんな分野で、既存のメインストリームに対抗するムーブメントが起きた。いわゆるヒッピーやフラワーチルドレンに代表されるカウンターカルチャーだ。1969 年に開催されたウッドストックや反戦運動などは、象徴的な出来事だろう。「もっと自由を!」、これが若者達の声だった。サーフィンの世界も、このカウンタカルチャーの潮流の真っただ中にあった。1960 年代までロングボードと呼ばれる3m以上の長さのサーフボードが主流だったが、'65 年以降、年々、短くなっていったのだ。「もっと海の中で自由に動きたい」、そんな新しい世代のサーファー達の願望がこの「ショートボード革命」というムーブメントを引き起こした。フィッシュは、このショートボード革命の申し子と言っていいだろう。「もっと自由に!」、「もっと速く!」、そんなラディカルでコアなサーファー達の願望が生み出したのだ。 スケートボードも時を同じくして、大きな変貌をとげていく。1959 年、初めてコンプリートのスケートボード「ローラー・ダービー」が売り出されて以

グをする。ボードを手でホールドすることができ、重心が低く安定性もあるから、より波の際どいポジションからテイクオフできる。そのニーボードの浮力を増して立って乗れるようにしたのが、フィッシュというわけだ。その成功のカギとなったのが、フィンだ。フィッシュをひっくり返してみると、テールの部分にサメの背びれのようなパーツが二つ付いているのがわかる。スケッグとも呼ばれ、サーフボードのターンや安定性を確保するためにはなくてはならない。特に、フィッシュのフィンはキールフィンと呼ばれ、サイズとボリュームがある。当時は木片を削り出して作ったのだが、その材料となったのが、なんとスケートボードだった。デッキはサイズも厚さもフィンに手頃だった。乗らなくなったスケートボードをリサイクルしたというわけだ。その生い立ちだけでなく、フィッシュとスケートボードは不思議な縁でつながっている。 一時はサーフシーンを風靡したフィッシュだが、その後は廃れてしまった。コンテストを主眼としたレーシングカーのようなサーフボードが主流になったからだ。しかし、ここ数年、再び注目を集め、リバイバルを果している。「もっと自由に波に乗りたい!」というフリーサーファー達によって。

降、全米で人気を呼びスケートボード・ブームを呼ぶ。しかし、1960 年代末、サンタモニカから革命が起る。カリスマサーファーでシェイパーであったジェフ・ホーが、モールドプラスティック製の軽量スケートボードを生み出したのだ。より自由に滑ることができる革新的なボードだった。このエボリューションにより、

SLIDE 03Various kinds of surfboards have been trend with the times in the world of surfing.“FISH” which was produced in 1960’s is the surfboard considered to be the closest to the skateboard regarding its history or quality

FISH海の上のスケートボードサーフィンの世界では、時代とともにさまざまなボードがトレンドになった。中でも、1960 年代に登場した “ フィッシュ ” は、その生い立ちや乗り心地など、スケートボードに最も近い存在だ。文=オフシーズン Text: OFF SEASON

トニー・アルバ、ジェイ・アダムスなど「Z ボーイズ」が誕生したのは、往年のスケーターならよく知っていることだろう。 フィッシュの生みの親は、サンディエゴのニーボーダー、スティーブ・リズだ。ニーボードは一般的なサーフィンと異なりボードの上で正座をしてライディン

映画『FISH』は必見。フィッシュの歴史や醍醐味を、マーク・リチャーズ、ロブ・マチャドなど有名サーファーに取材・構成した骨太ドキュメンタリー

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EDITORIALEDITORIAL10 OFF SEASON magazine 11OFF SEASON magazine

r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .ISSUE NO.09 AFTER AUTUMN/BEFORE WINTER 2016r e l a x , r e f r e s h , r e j o i c e i n l i f e .

   上げるほど高く伸びた椰子の木が道沿いに並   び、その向こうに澄み切った青い海そして沖でブレイクする白い波しぶきが見える。マウイ島のハナハイウエイをドライブするとこれこそハワイというイメージ通りの風景が続く。空港から 15 分ほど走ったところにパイアという古い町があり、その小さな町の入り口にストーンウエイブスケートパークはある。マウイ島にある五つのスケートパークの一つであり、おそらく世界で最も海に近いスケートパークでもある。何しろ海までは2、3m。塀を越えたそこはすでにビーチなのだ。 ハワイでサーフィンをはじめとするマリンスポーツが盛んなのは周知の事実。日中は暑くてとても無理だからなのか、明るい健康的なイメージが似合わないからか、ハワイでのスケートボードはあまり知られていない。でも実はかなり熱いスケートシーンが存在する。そして最近さらにサーフィンと同様キッズの勢いがものすごい。

「だいたいの子供達はサーフィンとスケート両方をする。たいていどちらかに重きを置いてサーファーだけどスケートもする、あるいはスケーターだけどサーフィンもするという感じ。僕もどちらもやっていたけどスケート寄りのキッズだった。幼稚園でフロリダから越してきたけど、その当時でもすでに一部のキッズはサーフィンが上手だったから、海ではちょっと引け目を感じていたのかもしれないな。でもこのスケートパークのおかげで毎日スケートすることができた」 マウイではサーフィンもスケートも子供を悪い道から遠ざけるためのプログラムとして奨励されている。もちろんスーパーフィットで健康的であったら、スケートらしいかっこよさがなくなってしまうが、こんな健康的で明るい環境であまりダークでいるのは難しい。世界の他のエリアに比べたらとてもフレンドリーで楽しい雰囲気に満ちている。放課後になるとスクールバスがパークの前に停まり、大勢のキッズがスケートボードを抱えてバスから吐き出される。ここのパークは週3日放課後3時から夜の7時までオープンされる。働いている親達にとっては無料のデイケアみたいなありがたい存在だ。そしてザンダー達スタッフは彼らが憧れたり頼りにできる兄貴分であり、コーチでもある。ちょっとでも悪いことをするとスタッフがちゃんと見ていて指導するから、キッズは礼儀正しく、仲がいい。それがオアフやカリフォルニアのスケーターにはなめられてしまうという欠点ではあるかもしれないが …。 サーフィンとスケートの関係はここマウイではも

る。スケートパークもキッズ中心、ファミリーで楽しむものというのが主流だ。 今、マウイには五つのスケートパークがある。一番大きなのがラハイナ、そしてパイア、カフルイ、キヘイそれから新しくハナにもできた。六つ目が来年の秋頃ハレアカラの山の中腹プカラニにもできる予定だという。子供達がパークでスケートを楽しむことがとてもいいことだと認められてきているからに他ならない。 ここパイアにあるストーンウエイブパークはパイアユースセンターのプログラムの一環として運営されている。ザンダーは子供の頃からここで育ち、今は

ちろん密接。スケートパークからビーチまで数メートルしかないのだから。スケートして暑くなったら海に飛び込む。暗くなってサーフィンから上がってきてからスケート、そんなスタイルが当たり前。ほとんどの子供が両方を楽しんでいるし片方がもう一つの上達のために役立っているのは明らかなようだ。 スケートのレベルはオアフや LA にはまだまだ届かないし、そういうところに行くとマウイのスケーターは物怖じしがちな田舎者スケーターに見られるかもしれない。スター性のあるプロも存在しない。でもサーフ・アンド・スケートのコンビネーションだったらマウイは恵まれていてレベルも高い。もともとマウイという島はオアフほど波にも恵まれていない分ウインドサーフィンやスタンダップ・パドル・ボードが流行りだした。スケートでもオアフのような都会にはかなわないが、なんでもできるモノをできるときに楽しむというメンタリティが一般的でスケート、サーフと分けること無く楽しむことをよしとする雰囲気があ

正式にスタッフとしてここで働いている。スケートパークだけでなく、隣にある建物ではラジオ局もあり、DJ やラジオ放送の技術を学んだり、料理教室その他いろんなプロジェクトが常にあり、子供達は自分の興味のあるものをどんどん試すことができる。もちろん波がよければすぐ裏に海があり、そこでほとんどのローカルキッズがボディサーフィンやボディボードをすることからサーフィンに入っていく。スケートもただパークを解放するだけで無くレッスンもあれば、コンテストもあり、また別のパークでのコンテストにみんなで遠征したりすることもある。 「今僕ができることはほとんどここで覚えたんだ、スケートだけでなく、料理、カメラ、ラジオ放送もやったよ。そして夜スケートパークを照らすライトを毎晩引っ張り出してきてつける仕事は僕の仕事だったんだ。結構重くて大変だった。でもそういう風にして金銭的に恵まれていない子供達は、何かしら仕事をすることでメンバーシップの費用を免除される方法もあ

るのがありがたい」 パークの維持費は行政、そしてローカルビジネスからの寄付、そしてこのユースセンターのおかげで子供達が生き生きとスポーツに熱中したり、技術を学んでいることに恩恵を受けている親達からの寄付で成り立っている。街の行政からも援助は受けているけれど、何より地元のいろんなビジネスや子供達のためにいいと考えてくれている個人の寄付が大きな支えになっている。とにかく自分の子供たちがパークで毎日過ごすことがいい影響を与えていると思っている人が多いのだ。一般的にはスケートというのは不良っぽいイメージだけれどマウイではそれが感じられない。いろんな不満をスケートにぶつけるというよ

りは、とても健康的でサーフィンと同じようにスポーツとして楽しみ、頑張って大会にも出ていつかはプロスケーターになりたい、という子供が多い。子供同士で滑っている様子も本当に楽しそうだ。 マウイ島ベースのスケートブランドもいくつかある。「Island Life Skateboards」、「Aloha Skateboards, Hi-Tech Surf and Sports 」がスケートデッキを出している。ハワイをイメージさせるティキやフラガールなどのグラフィックを使ったデザインも多い「Plate Lunch」はスケートボードを作っているわけではないけれど、スケートシーンに欠かせないローカルブランド。ダカイン創立者ロブ・カプリンが何十年か前に始めたように小規模のオペレーションでアクセサリーやウエアを作っている。コンテストをスポンサーしたりしてマウイのスケートボードに貢献している。 子供達でも大人でも、そして観光客でも誰もがカジュアルに訪れてスケートを楽しむ。嫌な思いをせず、今まで以上にスケートが好きになってもらえるようなパークを提供し、いいバイブレーションのなかスケートができる、それがマウイのスケートシーン。昔はそうでもなかったというが、今は波乗り以上にアロハスピリットを感じられる小さいながらに熱いスケートシーンと恵まれたパーク施設からサーフィン、スケート両方のプロなんていうライダーがそのうち誕生するのではないか、と期待している。"Rolling with Aloha." 波乗りとスケートを同じ場所で楽しめるパイアでハワイアンスタイルのスケートを是非味わってほしいものだ。

SLIDE 04Surfing must be the most popular sport in Hawaii. However people there are also enthusiastic about skateboarding.Children can enjoy both skateboarding and surfing here and there in Hawaii since they are very young because the local community always supports them.Here is a report from Maui island.

Rolling with Alohaマウイ島のスケートシーンとは?ハワイというとサーフィンのイメージが強いが、スケートも盛んだ。子供達は幼いころから、陸でも海でもボードに乗って飛び回っている。それは地域をあげてサポートしているからだ。マウイ島からリポートしよう。文=岡崎友子 Text: Tomoko Okazaki写真=ザンダー・ロバートソン Photos: Xander Robertson

 ザンダー・ロバートソンはそんなマウイのスケートシーンの申し子といえる。「自分はパイアのスケートパークで育ってきたようなものだ」と語るザンダーは 19 歳、マウイでは最も知られるスケーターの一人であり、マウイのスケートシーンの写真を撮っているカメラマンでもある。エッジが立ってること、アンチヒーロー的であってこそがスケートスタイルではあるが、そういったところを残しながらもフレンドリーで健康的なスケートシーンがマウイにはある。そしてそれは海と隣接し、スケートだけでなく、子供たちがいろんな面で興味深いことや好きなことを追求し、学んでいけるユースセンターの存在が大きいと彼は言う。

マウイ島、パイアにあるストーンウエイブスケートパークは、世界で最も海に近いスケートパークだろう

学校が終わるとスクールバスに乗ってパークにやってくるキッズとスタッフのザンダー。パークの掃除やメインテナンスなどもキッズに教えながら手伝わせ、スケート以外の面でも兄貴分として慕われている