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世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴ はじめに 第1章 現代とはいかなる時代か-再帰的近代化論の観点から 第1節 アンソニー・ギデンズの再帰的近代化論 第2節 ウルリッヒ・ベックの再帰的近代化論 第3節 なぜ再帰的近代化なのか 第2章 「第二の近代」における政治共同体の変容 第1節 国民国家の「脱埋め込み」と「再埋め込み」 第2節 現存する国民国家秩序 第3節 世界秩序の変容 統治性(主権と生権力)の観点から 政治的主体の観点から(以上、本号) 第3章 現代デモクラシーの課題 第1節 危機のデモクラシー 自由民主主義の揺らぎ ⑵ 「ナショナルな民主主義」の揺らぎ 生/暴力と民主主義の揺らぎ 第2節 デモクラシーのラディカルターン リベラル・ナショナリズム論 熟議民主主義論 闘技民主主義論 絶対的民主主義論 第4章 来るべき世界秩序と現代民主主義論の再配置 来るべき民主主義と統治性 来るべき民主主義とデモス おわりに 1

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世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴

山 崎 望

はじめに

第1章 現代とはいかなる時代か-再帰的近代化論の観点から

第1節 アンソニー・ギデンズの再帰的近代化論

第2節 ウルリッヒ・ベックの再帰的近代化論

第3節 なぜ再帰的近代化なのか

第2章 「第二の近代」における政治共同体の変容

第1節 国民国家の「脱埋め込み」と「再埋め込み」

第2節 現存する国民国家秩序

第3節 世界秩序の変容

⑴ 統治性(主権と生権力)の観点から

⑵ 政治的主体の観点から(以上、本号)

第3章 現代デモクラシーの課題

第1節 危機のデモクラシー

⑴ 自由民主主義の揺らぎ

⑵ 「ナショナルな民主主義」の揺らぎ

⑶ 生/暴力と民主主義の揺らぎ

第2節 デモクラシーのラディカルターン

⑴ リベラル・ナショナリズム論

⑵ 熟議民主主義論

⑶ 闘技民主主義論

⑷ 絶対的民主主義論

第4章 来るべき世界秩序と現代民主主義論の再配置

⑴ 来るべき民主主義と統治性

⑵ 来るべき民主主義とデモス

おわりに

1

一五四

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は じ め に

われわれはいかなる時代を生きているのか。われわれが生きている時代

を「現代」として把握するのであれば、その現代をいかに特徴づけるべき

か、政治学、社会学、経済学、哲学などから様々な試みがなされている。

ここではその中から、「現代」を「高度近代(high modernity)」、「第二の近

代(second modernity)」、あるいは「後期近代(late modernity)」として把

握する、いわゆる「再帰的近代化」論を展開する理論家たちに注目したい。

彼らの主張する「第二の近代」という歴史的位相において、世界秩序は

いかに変容しているのか。国民国家システムとして秩序化が図られてきた

世界秩序が揺らぎ、新たな秩序像を模索せざるを得ないとするのであれ

ば、それはいかなる世界秩序の在り方であろうか。また第二次世界大戦、

それに続く冷戦を経て、21世紀において政治を指導する原理として世界大

に拡大し、覇権的な座に君臨しつつある民主主義は、世界秩序の変容に伴っ

て、いかに変容しており、また再構築すべきなのであろうか。そして来る

べき世界秩序の創造において、いかなる役割を果たし得るのであろうか。

本論では、以下、第一に政治共同体の構造の変容についての考察を、そし

て第二に政治共同体の変容に即した民主主義の変容と世界秩序形成への寄

与の可能性についての考察を行いたい。

まずは、現代という時代にアプローチをするために、再帰的近代化論の

手がかりとしたい。まず、再帰的近代化論の代表的論客として、相互に知

的交流を持ち、深い影響を与えあっている、イギリスの社会学者アンソ

ニー・ギデンズとドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックを取り上げたい。

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)2

一五三

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第1章 現代とはいかなる時代か-再帰的近代化論の観点から

第1節 アンソニー・ギデンズの「再帰的近代化」論

ギデンズによれば、われわれが生きる「後期近代」は「近代」と呼ばれ

る時代がもたらした諸帰結が、これまで以上に徹底化し普遍化していく時

代として把握される。それでは、近代とはいかなる時代であったのだろう

か。それは「およそ一七世紀以降のヨーロッパに出現し、その後ほぼ世界

中に影響が及んでいった社会生活や社会組織の様式」(Giddens, 1990: 1=

1993:13)にほかならない。その近代を示すダイナミズムの源泉としては、

以下の三つの指標があげられる。第一は「時間と空間の分離」と、それを

基盤とした時間と空間の再結合、第二は「脱埋め込み」メカニズムの進展、

そして第三は知識の継続的な投入が行為に影響を及ぼす社会関係の「再帰

的秩序化と再秩序化」である。

この三つの近代のダイナミズムの源泉を詳しく見ていこう。まず「時間

と空間の分離」である。ギデンズによれば、近代とは区別される前近代に

おいて時間(time)と場所(place)は強く結合していた。しかし、近代にお

いては機械時計が発明され普及したことによって「時間の空白化」が生じ

る。すなわち時間は均一に測定可能なものへと変化し、それによって時間

が定量的なものとして認識されるようになったのである。時間の社会的な

管理は均一化し、結果として生じたのが「時間と空間の分離」である。時

間は特定の場所から解放され、社会活動は目の前の特定の文脈への「埋め

込み」から解き放たれた。また、より広い文脈の中で調整されて結びづけ

られることにもつながった。さらに局所的な文脈と結びついていた「場所」

から引き剥がされることで、「空間」(space)もまた「空白化」された。こ

れによって場所から解き放たれ空白化した時間と空間は、両者が再結合を

果たす基盤を整えたのである。例えば時刻表は、「列車が何時にどこに到着

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するかを表示する時空間を秩序づける手段(Giddens,1990:20=1993:34)」

であり、時空間の広がりを越えて、列車の運行、乗客や積み荷との複雑な

調整を可能としている。この「時間と空間の分離」は、次に述べる第二の

近代のダイナミズムの源泉である「脱埋め込み」過程の重要な条件にもな

る。

ギデンズが第二の近代のダイナミズムの源泉として指摘する「脱埋め込

み」は、「社会関係を相互行為の局所的な文脈から引き離し、時空間の無限

の広がりの中に再構築すること」と定義される。この脱埋め込みのメカニ

ズムとして第一に象徴的通標の創造があげられる。象徴的通標とは「何れ

の場合でも、それを手にする個人や集団の特性にかかわりなく、流通でき

る相互交換の媒体」(Giddens,1990:22=1993:36)であり、具体例としては

貨幣があげられる。貨幣は取引行為を局所化された文脈や時空から引き離

し、無限に拡大された時空間で再構築することを可能にする。近代という

時代において、原則的にはいかなる人々であれ、その特性にかかわりなく

流通する媒体を手にして関係をより広大な時間と空間の広がりの中で再形

成することが可能になったのである。この「脱埋め込み」のメカニズムと

して、ギデンズは第二に「専門家システムの形成」をあげている。「専門家

システム」とは例えば法律の体系や建築技術などであり、「我々が今日暮ら

している物質的社会的環境の広大な領域を体系づけている、科学技術上の

成果や職業上の専門家知識の体系」(Giddens,1990:27=1993:42)である。

技術や知識の体系は、社会関係を前後の文脈の直接性から引き離し、拡大

化した時空間のどこでも期待された結果が得られるという期待を保証する

ことで「脱埋め込み」の過程を強化する。つまり特定の場所を離れても、

いつ、どこででも期待される結果が得られるという期待を法律などの専門

家システムは保証しているのである。

そして象徴的通標(例えば貨幣)や専門家システム(例えば法律)に対する

信頼が保証されることで、人々は「一連の結果や出来事に関して人やシス

テムを頼りにすることができるという確信」(Giddens,1990:34=1993:50)

一五一

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を抱き、より広い時間と空間の中で行動し、様々な関係性を形成していく

ことが可能になる。

近代のダイナミズムの源泉の三番目としてギデンズがあげるものが「再

帰性」、すなわち「行為の再帰的モニタリング」にほかならない。再帰性と

は「社会の実際の営みが、まさしくその営みに関して、新たに得た情報に

よって常に吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変

えていく」(Giddens,1990:38=1993:55)ことである。このような再帰性の

メカニズムは前近代にもたしかに存在していた。しかし伝統社会において

は、行為の再帰的モニタリングは「伝統」によって局所的な共同体の時空

間に結びづけられており、近代のダイナミズムの源泉とはなりえなかっ

た。これに対して近代においては時間と空間が分離し、脱埋め込みの過程

が進展した結果、再帰性はシステムの再生産の基盤自身に入り込み、人々

の社会生活は伝統の不変性・固定性から解放されることになったのであ

る。

このような近代のダイナミズムの源泉は、結果として以下の四つの制度

的特性を形成する。第一は資本主義、すなわち資本を私有する人々と持た

ない賃金労働者を中心に展開する商品生産システムであり、第二は産業主

義、すなわち商品生産における無生物的動力源の使用である。そして第三

が監視能力の発達であり、これによって人々の活動が管理されるようにな

り中央集権化にも寄与することとなった。第四は暴力手段の管理であり、

具体的には近代国家による領域内での暴力の独占であった。

われわれは伝統によって局所的な社会関係に封じ込められてきた生活か

ら、広大な時空間の広がりの中で、新たな関係性を構築して生活するよう

に変化してきた、と言えよう。そしてこのような「近代」という社会生活

の様式は、今日、ギデンズによれば「その帰結がこれまで以上に徹底化し、

普遍化していく時代」へと突入することで変化している。それこそがまさ

に「後期近代」という、われわれの生きる時代にほかならない。『左派右派

を超えて』を手掛かりに、さらにギデンズの「後期近代」の社会の輪郭の

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描写を追ってみよう。

ギデンズは、「グローバル化」・「ポスト伝統社会化」・「社会的再帰性」の

増大という三つの変動が先進諸国のみならず、世界中に影響を強めている

ことを指摘する。第一のグローバル化については経済的側面に注目が集ま

ることが多いが、経済的側面のみに限定されない政治的・経済的・文化的

な複合的現象として理解されるべきである。すなわち、グローバル化とは

「脱埋め込み」や「再帰性」といった、近代が内在的に有するダイナミズム

の源泉が持つ傾向が全面化したものであり「様々な社会的状況や地域間の

結びつきの様式が、地球全体に網の目状に張り巡らされるほどに拡張して

いく過程」を意味する。それは高度情報化により日常生活が再編される過

程であり、ある側面では世界を統一化するが他方ではローカルなアイデン

ティティやナショナリズムを高揚させるなど分裂化を促進するものでもあ

る。その意味でグローバル化は、複合的かつ矛盾した帰結を産む変動のセッ

トである。今や地域の分離独立運動を行う活動家たちは、地域的なアイデ

ンティティをかつてないほど強調しながら、他方でグローバル大にはりめ

ぐらされたインターネットで情報を収集している。国境を越えて資金から

武器、専門的なアドバイスに至るまでを受け取りながら、ローカルな場で

活動しているのである。

第二は「ポスト伝統的社会秩序」の登場である。これはグローバル化の

進展に伴い伝統の位置づけが変化したことを意味している。従来、伝統は

社会関係を編成する聖域化された原理として機能してきた。しかしながら

ポスト伝統的社会においては、伝統はその存在を自ら説明しなければなら

なくなる。伝統は審問や討論に応ずる必要にさらされ、いわば「開かれた

伝統」が要請されるのである。アイデンティティや伝統はもはや自明のも

のではなくなり、自らについての説明の努力が要請されるものへと位置づ

けを変化させる。しかしこのポスト伝統的社会が出現すると同時に「原理

主義(fundamentalism)」が台頭してきていることも見落としてはならな

い。原理主義は「伝統的なやり方で、伝統を守ろうとすること」であり、

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その際、伝統は正統化されることを要請されない。伝統について一連の心

情や原則の「純粋性」が強調される傾向があり、単に自らの伝統を他の心

情や原則から差異化することが望まれるだけではなく、他者との公的空間

での理性的な対話が拒絶される傾向がある。それゆえにグローバル化が進

展した今日、かかる原理主義は対話の拒絶や暴力の使用という危険な傾向

を内包すると、ギデンズは警告を発する。そして伝統をもはや自明視する

ことができなくなったポスト伝統社会において台頭する原理主義は、宗教

のみならず、エスニシティやジェンダーなど、いかなる社会生活の領域に

おいても噴出する可能性を秘めている。

後期近代の社会を特徴づける第三の指標は「社会的再帰性」の拡大であ

る。近代社会の形成において重要な役割を果たしてきた「再帰性」は、後

期近代においてさらに拡大する。ギデンズの言葉を借りれば、再帰性の増

大した世界とは「クレバーな」人間の世界であり、人々は自らの生活に関

連する情報を精査して、そのフィルタリングの結果に基づいて行為しなけ

ればならない。このような社会的再帰性は身近な日常生活からマクロな政

治的・経済的領域に至るまで浸透している。例えば食物を購入しようと考

えている人々は、遺伝子改良を経た食物がいかに健康に有益もしくは有害

であるのか、原油価格の変動でどの食物がどれだけ高くなり、また政府の

関税などの諸政策によりどれだけ安くなるのか、それらを情報として精査

し、それをフィルタリングしつつ食品の購入(もしくは購入しない)の決定

をしなければならない。そしてその行為の結果は社会におけるその食物の

位置づけ(価格や需要、イメージなど)を変化させ、それがまた重要な情報と

して人々の日々の行動へと再帰的に組み込まれていく。かかる社会的再帰

性の拡大は、脱伝統化社会の「条件」かつ「結果」であり、グローバル大

に展開するものである。

これらの結果、個人も集団も自らの生存を確保するために「前向き

(active)」であることを余儀なくされる。後期近代は、自明と思われてきた

すべてのものが選択性を帯びる時代として、われわれの前に立ち現れるの

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である。われわれは後期近代において、「当然と思われていたすべてのもの

が選択性を帯びた世界でどう生きていくべきか」(Giddens,1994:91=2002:

190)という課題に直面することになる、とギデンズは指摘する。従来の慣

習によるガイド(導き)は限定的なものとなり、原理的には将来は無数のシ

ナリオが立ち現れる時間となる。それは人々にとって既存の習慣や伝統、

制度、規範などからの「自由」をもたらすが、同時に人為的不確実性が濫

造される世界であり、人々は否応なく、より「前向き」で「再帰的 reflexive」

な主体となることを強要される世界でもある。

第2節 ウルリッヒ・ベックの再帰的近代化論

次にギデンズが再帰的近代化論を展開していく上で大きな影響を与えた

と思われる、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの再帰的近代化論につ

いてみてみよう。ベックによれば、再帰的近代化とは「産業社会の創造的

自己破壊の可能性」(Beck,Giddens,Lash,1994:2=1997:11)を秘めた過程

であり、その自己破壊の中で一つの近代化が別の近代化を蝕み、変化させ

て行くような新たな段階であるとされる。ベックは現代社会を従来の単線

的で一義的な産業的近代化、すなわち「産業社会による伝統的社会形態の

脱埋め込みと再埋めこみ」と、両義的な帰結をもたらす再帰的近代化、す

なわち「別の近代による産業社会の脱埋め込みと再埋めこみ」(Beck,Gid-

dens,Lash,1994:2=1997:12)の相克状態にあるものとして把握する。ギデ

ンズと同様ベックにとっても再帰的近代化とは、近代化の断絶ではなく、

むしろ産業社会を形成してきた近代化の継続によって、その産業社会自体

が変容していく過程である。この過程においては、革命や政治討論や意思

決定といった政治的な行為によって社会全体が変動していくことはなくな

り、むしろ意図せざる形で非政治的に社会全体が変容していくことにな

る。

ベックの再帰的近代化論の特徴はまさに、「行為の意図せざる帰結」にあ

ると言っても過言ではない。前述のギデンズの再帰的近代化論では、社会

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の近代化が進展するほど、行為の担い手は自らの存在の社会的諸条件に「省

察(reflection)」を加え、こうした省察によってその条件を変える能力を獲

得し、それによって社会を変動させていくと把握されていた。これに対し

てベックは「省察(reflection)」(もしくは「自己再帰性(self-reflexivity)」)

の契機を把握しつつも、それと区別される「再帰性(reflexivity)」(もしく

は「制度的再帰性」)を重視する。すなわち行為の意図せざる帰結としての自

己解体の契機を強調するのである。前者によって個人の意思決定・選択領

域が拡大するとすれば、後者によって誰もが「省察」することなしに、つ

まり知識や意識が及ばない形で意図されることも気づかれることもなし

に、産業社会の基盤が蝕まれ産業社会自体が変容していくのである。

この結果再帰的近代化の進展する現代社会においては、ベックが「リス

ク社会」と呼ぶような新たな社会がその姿を現していくことになる。それ

は国境を越え、階級を越え、グローバルに現れるものである。リスク社会

は「自らが及ぼす悪影響や危険要素を感知できない、自立した近代化過程

の連続性の中に出現」するものであり「こうした過程は産業社会の基盤を

疑わしくさせ、最終的にはその基盤を破壊してしまうような脅威を潜在的

にも、また累積的にも生み出して行く」(Beck, Giddens, Lash, 1994:5-6=

1997:17-8)とされている。

ベックはここで「リスク(Risiko)」と「危険(Gefahr)」とを区別し、前

者は人為的企てに伴う危険という含意を持つのに対し、後者はこのような

含意がない場合の危険である、と定義している。リスク(Risiko)とは無知

ゆえに生じるのではなく、逆に人間が歴史的に獲得した知識から発生する

ものである。産業社会を産み出した近代化の過程においては、知識を獲得

していくことで人間は、自らにふりかかる多様な危険や不確実性に対して

多様な制度を形成して対処してきた。これに対し「リスク社会」において

は、逆説的にそのような知識こそが産業社会自体を解体し、人間を危険に

さらさせるのである。

では、いかなる形で再帰的近代化は産業社会の基盤を自己解体し、リス

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ク社会を産み出していくのであろうか。ベックによれば第一に「自然」と

の関係で、第二に「伝統」との関係で、リスク社会への移行が進むとされ

る。ベックによれば、社会は自らをリスク社会として概念把握する中で(狭

義に)再帰的になっていく、とされる。自らが認知不可能な仕方で、また意

図せざる形で産業社会が自己解体しリスク社会化してく中で、人々は、や

がて社会自身を主題として問題化し、再帰的な自己決定をせまられるよう

になっていく。この人々の「省察」は合理性の基盤に対するものと、集合

的意味供給源でもある社会的凝集性の基盤(たとえば国民や階級など)に対

するものとに区分される。

前者の「自然」との関係においては、産業社会の人々は科学技術や知識

を用いて「自然」をコントロール可能な対象として行動してきたが、リス

ク社会においては、かかる科学技術や「知識」に対する一義的信頼が次第

に失われていく。もはや人々は社会の科学技術的なコントロール可能性に

対する信仰を失いつつあり、合理性の基盤も揺らぐことになる。何を信頼

すれば良いのか判断がつかず、一目瞭然とした解決方法が見出せないリス

ク社会において、人々は一義的な解決方法に対する信仰を持っていた産業

社会的な対応を変えざるをえない。「自然」に対する決定的なコントロール

可能性への期待を放棄し、両義性を受け止めて肯定していくような思考の

転換と新たな行為様式を始めなければならないのである。それは自然のも

たらす危険に対して決定的な解決策を求めることができず、永久に意思決

定を行なわざるをえない「自己批判社会」であり、かかる社会においては、

不確実性の荒波の中で人々はたえず社会に対して批判的まなざしを向けて

生活していかなければならない。その意味では強迫的にではあるが、そこ

には既存の政治的対立軸ではなく、新しい政治的対立軸が生ずる可能性が

常に満ちている。政治空間のイメージは大きな変化をこうむらざるをえな

い。

第二に、「伝統」は産業社会における集団に固有な意味を与える意味供給

源(例えば階級意識や進歩信仰など)として機能してきたが、それは今日では

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「枯渇し、解体し、脱魔術化」(Beck,Giddens,Lash,1994:7=1997:20)して

いる。この結果、社会的凝集性の基盤は揺らぎ、すべての意思決定作業・

定義の努力が階級や国民といった集団ではなく、個人に委ねられる「個人

化」が進展する。個人化とは「産業社会からグローバルリスク社会」への

「脱埋め込み/再埋め込み」の過程であり、産業社会的な生き方からの「脱

埋め込み」と、それに続く新たな生き方による「再埋め込み」を意味し、

各人はこの運命から逃れることはできないとされる。この新たな生き方に

おいて、各人は自らの生活歴を、集団ではなく自分自身で「創作し、上演

し、補修していかなければならない」(Beck,Giddens,Lash,1994:13=1997:

30)。自らの生活歴は社会によって規定されたものというよりは、いわば個

人によって「選択された生活歴」へと位置づけを変えることになるのであ

る。産業社会においては、人々は国民国家と結合した福祉国家体制がもた

らす教育の拡大、階層の流動性、生活水準の上昇という条件下で、かつて

ならば家族集団や村落共同体、社会階級などの集団の力を借りなければ対

応できなかった諸問題を克服することができた。しかしリスク社会におい

ては、生活歴上の好機や危機、ジレンマを「個人」が自身でそれに気づき

解釈し対処していかなければならないことになる。

今や産業社会における集合的な意味供給源であり、かつ多様なリスクを

回避してきた「国民」、「階級」、(それと緊密な関係を持ってきた完全雇用、労

働契約や勤務時間・場所、標準化された勤務形態など)、「核家族」、(それと一体

化した性別役割分業、標準化・規範化された婚姻、親子・性関係など)は自己解

体し、人々は「階級」や「核家族」のみならず「国民」からも「解除」さ

れることになる。かかるリスク社会においては、ベックは従来ならば社会

全体の問題として把握されてきた事柄、たとえば大規模な失業問題などは

個人化されてしまい、社会問題としてではなく「個人の問題」として解釈

されることになるとする。その結果、人々は「自分が選択した」との意識

から、多様なリスクを社会的なものとして認知することができず、ベック

が「不可視の統制構造」と呼ぶ労働市場、教育・消費・社会保障法の規定

一四四

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 11

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や給付に、また時には医学や心理学、教育学などの助言へと個人的に依存

することになる。リスク社会を生きる人々の目には、あたかもあらゆる選

択肢が広がったかのような感覚が広がると同時に、実際には選択肢が狭め

られるという事態が生じる。ベックの議論によれば、産業社会が付与して

きた「確信できるもの」や「集合的意味供給源」を欠如させたまま、不確

実性と個人化が広がる中で「自己/他者に対する新たな確実性を創造する

ことを強制される」(Beck,Giddens,Lash, 1994:14=1997=32)のである。

もっともベックは現代社会を完全なリスク社会としてではなく、産業社会

からリスク社会への過渡期にあたる「残余リスク社会」として把握してい

る。したがって階級や核家族といった産業社会の諸制度が完全には解体せ

ずに残存している現代社会において、人々は産業社会におけるライフスタ

イルと、リスク社会における個人で選択するライフスタイルという、深刻

に対立しあう生活リズムの狭間に立たされるのである。

第3節 なぜ再帰的近代化なのか?

ここまで現代がいかなる時代にあるのか、それを明らかにすべく、「再帰

的近代化論」という理論的枠組みを用いて問題にアプローチするギデンズ

とベックという二人の論者の議論の概略を述べてきた。ここで、なぜ「再

帰的近代化」という議論に着目するのか、述べておきたい。

再帰的近代化論の特徴は何よりも「再帰性」という概念にある。「再帰性」

とは、ギデンズによれば「社会の実際の営みが、まさしくその営みに関し

て、新たに得た情報によって常に吟味、改善され、その結果、その営み自

体の特性を本質的に変えていく」こととされる。この再帰性の定義によっ

て、社会が個人を作り、また個人が社会を作っていくという過程によって

歴史が進展する「近代」、そして「現代」へと続くメカニズムが明らかにさ

れる。

社会や歴史は人間によって作り出されていくのか、それとも人間は社会

や歴史によって操られていくだけなのか。いわば「社会・歴史が先か、人

一四三

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)12

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間が先か」という「鶏が先か、卵が先か」といった論争に類似する社会学

のアポリアに対して、ギデンズは「構造化理論」による説明を試みている。

ギデンズによれば、社会の変動において行為者(agent)と構造(structure)

は相互に規定しあい、新たに各々を形成していく。すなわち両者は「作り、

作られる」関係にある。人々は世界へと投げ出されており、時には矛盾し

時には強化し合う社会の様々な網の目の中に埋め込まれており、さまざま

な種類の構造に規定されている。その構造とは経済的なものに限定されな

い。法的規範をめぐるもの、「国民」としての規範をめぐるもの、年齢をめ

ぐるもの、ジェンダーをめぐるもの、セクシュアリティをめぐるものなど

多岐にわたる。そして構造に規定され主体化されることで、人々は構造を

「資源」として活用し、「規則」にのっとった行動をし、結果として社会で

活動することが可能になる。その意味で構造による規定を通じた主体化

は、それによって様々な行為を可能にすると同時に、構造を再生産すると

いう結果を産み出す条件ともなっている。

しかし、人々が一方的にそれらのルールに規定されるだけであるなら

ば、人間が選択をして、作為的に社会を変動させ、歴史を作り出していく

という「近代政治」が展開する余地は失われることになる。

それでは構造に規定されて主体となる人々は、いかにして新たに社会を

作りかえ、歴史を紡いでいくのか。「構造化理論」においては、人々はあく

まで構造に規定されてはいるが、まったく選択の余地がないという意味で

「決定」はされていないと主張される。構造は行為者にとって「条件」では

あっても、動かすことが不可能な「前提」ではないのである。したがって、

人々は一つの構造によって行動をすべて決定される「完全な主体」となる

ことはありえない。ある構造によって規定される行為には、別な行為を行

う余地が残されているからであり、いわば「不完全な主体」にしかなりえ

ないのである。そしてある構造によって完全には規定されない行為者、す

なわち「不完全な主体」がなす作為によって、新たな構造が生成されてい

く。それが堆積されれば新たな構造として確立し、再び行為者に新たな条

一四二

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 13

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件を与えることになる。

この行為者と構造の、もしくは個人と社会の「作り、作られる」関係を

明らかにした「構造化理論」は「再帰性」、すなわち「社会の実際の営みが、

まさしくその営みに関して、新たに得た情報によって常に吟味、改善され、

その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていく」ことの中に凝縮さ

れている、といっても良いだろう。人々は社会に規定されつつも、社会的

に規定されている自分自身を「再帰的」に精査することで、新たな構造を

産み出す可能性へと開かれているのである。かかる「再帰性」を中心に据

えた再帰的近代化論は、一方では近代という時代において(たとえ擬制であ

れ)作為や選択という概念を核心に据える「近代政治」の担い手である主体

像を可能にする。また他方では伝統から自明性を剥ぎ取り、「近代政治の主

体」を規定するさまざまな社会の構造や歴史の堆積物の権力性を明確化す

ることで、それらが自明ではないことを明らかにする.この両者の効果を

持つ理論が、再帰的近代化論であると言えるだろう。

この点において再帰的近代化論は、現代社会を近代「以降」の時代と把

握するポストモダニズムと一線を画している。ポストモダニズムは、世界

を認識するにあたってその「基礎」とされてきたことが信頼できないこと

を明らかにする。その結果、何事も確信をもって認識できないということ

に気づいたわれわれは、そのような「基礎づけの終焉」を前提に行動せざ

るをえなくなる。近代という時代を形作ってきたとされるさまざまな特

徴、例えば歴史には目的があり進歩するものとみなす進歩史観や、世界を

認識するための「基礎」が存在するという信念、さらに、それを前提にし

て社会を形成していくとされる近代的個人などの諸理念は「終焉」したの

である。このように論ずるポストモダニズムは、結果として、既存の近代

の秩序の崩壊や遠心的傾向(たとえば国家の分裂など)へと焦点を当てる。

そして断片化された社会を生きる人々は、もはや近代の歴史を切り開いて

きたような実践を行うことは不可能となり、グローバル化に直面して、政

治参加や社会参加は衰退し無力化していくと主張される。

一四一

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近代とポスト近代との断絶性を強調し、「近代の彼方」への移行を主張す

るポストモダニズムに対して、再帰的近代化論はむしろ、現代社会が分裂

や遠心化と同時に、統合や求心化のベクトルを併せ持つことを強調する。

人々は力を奪われるばかりではなく、以前は考えられなかったような力を

与えられるのである。したがって後期近代において、ローカルからグロー

バル、プライベートからパブリックまで、多様なレベルにおいて政治が展

開される可能性が開かれる。再帰的近代化論が強調するのは、現代社会が

ポストモダニズムが指摘するような一方向的な過程ではなく、むしろ多様

なベクトルがせめぎ合うトポスである、ということである。それは、近代

を形作ってきた諸要素や諸制度の「終焉」ではなく、近代を駆動させてき

た原理が徹底されることで、近代が凌駕されていく過程にほかならない。

その意味で近代と後期近代の差異のみならず「連続性」をも重視する点に、

再帰的近代化論の特徴があると言えよう。

再帰的近代化論は、ローカルな文脈に縛りづけられて確保されてきた自

明性が終焉した「近代」という時代を説明する。同時に、拡張された時間

と空間の中で、社会関係が国民国家、福祉国家、家族などへの「再埋め込

み」によって新たに確保されてきた「第二の自明性」が、生みの親たる近

代を駆動させてきた論理それ自体の徹底化によって失われていく、という

逆説的な展開をも説明する。両者を一貫した枠組みにおいて理解する道筋

を、再帰的近代化論は提供するのである。

この再帰的近代化論の視座から歴史を簡略化するのであれば、我々の社

会は近代のダイナミズムにより、社会活動はローカルな文脈や伝統、規範

から解き放たれ(「脱埋め込み」)、論理的には無限にまで拡大された時間と空

間の広がりの中で調整されて結び付けられる(「再埋め込み」)ことになっ

た。われわれは伝統によって局所的な社会関係に封じ込められてきた生活

から、広大な時空間の広がりの中で新たな関係性を構築して生活する(1)よ

(1) 本論の問題意識の形成において若林幹夫1992『熱い都市、冷たい都市』

一四〇

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うに変化してきた、と言えよう。

しかしながら興味深い事に、「近代」において、このような普遍性へと開

かれたダイナミズムは文字通り世界大に拡大することなく、解放された関

係性は一方で普遍化のダイナミズムを保ちつつも、他方で一定の時間・空

間の個別秩序へと「再埋め込み」されて特殊化されてきたのである。たし

かに前近代において自明性を帯びていた社会的関係性は、近代において多

くの部分が選択性を帯びたものとされ部分的には解体したのだが、他方で

選択性が隠蔽され新たに自明性をまとい立ち現れる関係性も創造されるこ

とになった。これによって、人々は一定の構造を持つ社会的な枠組みの中

で、その行為を制約されると同時に、確信や「集合的意味」を抱く基盤と

なる信頼をもって、行為が可能となる近代社会を生きることとなった。

第2章 「第二の近代」における政治共同体の変容

第1節 国民国家の「脱埋め込み」と「再埋め込み」

本論文では、「第一の近代」における時間と空間の脱埋め込み/再埋め込

みの結果として構築されてきた国民国家(nation state)に焦点をあてたい。

領域主権国家の形成を経て、国民国家は国内政治と国際政治を分岐する分

水嶺としての機能を果たし、国内政治における政治のアリーナであると同

時に、国際政治における政治のアクターとして現在に至るまで世界政治の

行方に大きな影響力を与えて続けている政治共同体である。

しかしながら、ギデンズやベックによれば、近代化の論理の徹底の帰結

が明瞭化する「第二の近代(Beck)」という歴史的位相においては、この国

民国家は再び「脱埋め込み」され、大きく変容している。「第二の近代」に

弘文堂から多くの刺激を得ている。若林の研究は都市社会学であるが、都

市というトポスにおける社会関係の変容が、近代という時代における社会

関係全般の再編と連動している、と筆者は考える。

一三九

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おいては、時間と空間の分離と再結合、それに基づく「脱埋め込み/再埋

め込み」のダイナミズムは徹底化され、「第一の近代」において「再埋め込

み」の結果として構築されてきた国民国家もまた、かつての伝統やローカ

ルな社会的関係性と同様、「脱埋め込み/再埋め込み」から逃れる「聖域」

ではなく再帰性の対象とされ自明性を剥奪され、近代化の徹底のダイナミ

ズムへと巻き込まれていくことになる。この過程自体が権力関係を再編す

るという意味で広義に政治的であり、「第二の近代」の歴史的条件を背景と

して行われる政治的作為もまた再帰性の一部である、という意味で狭義に

おいても政治的な過程としての性格を持つ。つまり純粋に自然な過程では

ないのである。

「第二の近代」における変動の論理を、時間および空間という観点から

考えると、時間的には柔軟性が、空間的には移動性が(第一の近代と比較し

て)より、解放(解除)されていく特徴があげられる。「時間的柔軟性」と

「空間的移動性」は、「時間の冗長性・空間の緩衝性」とその特徴としてい

たウェストファリア・システム(永井、1979、89-9頁)を揺らがせ、さらに

国民国家の自明性を問い直し、「われわれ=国民」と「かれら=外国人」を

わけへだてる境界線を再審し新たな他者とつながる扉を開き、新たな「わ

れわれ」を生み出す可能性を産み出すことになる。しかし同時に社会的再

帰性の増大と意図せざる結果としての脱自然化は、あらゆる自明性の問い

直しや揺らぎを産み出すため、結果として「かれら」を排除することによっ

て「われわれ」の輪郭の明確化を志向する原理主義へと惹かれる人々や、

自明性を攪乱させ得る(と想定される)他者への扉を閉ざし確実性へと執着

する人々を産み出す側面をもっている。原理主義や確実性への執着は、社

会における寛容の度合いを低め異なる価値観の対立を先鋭化させ、時には

衝突や価値観の強制という問題を惹起することになる。

他方で社会的再帰性の増大と意図せざる結果としての脱自然化は、依拠

すべき確実性を失わせ、連帯や共同性(共通なるもの)の生成を困難化する

側面もあわせもっている。人々は国民国家という から解き放たれるこ

一三八

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とで新たな関係性を構築する可能性を手にすると同時に、国家から見捨て

られるのみならず、様々な形態の安全網や伝統的な保護繭をも喪失して個

人化され、社会的承認や再配分の主体/客体とならず、歴史からも社会か

らも疎外された存在(脱歴史化・脱社会化)へ陥るという問題が惹起される

ことになる。

後述するように、それは政治的存在者として固有の言葉を持つことから

も排除される危険と重なることが多い。このような時間的柔軟性(フレキシ

ブル)と空間的移動性(モビリティ)の深化・拡大により、あらゆる関係の

偶発性は露呈することになる。「第二の近代」においては、「再埋め込み」

の帰結として存立してきた国民国家もまた「必然性」の衣を奪われる(2)こ

ととなる。

ではかかる「第二の近代」という歴史的位相において、世界秩序はいか

に変容しているのであろうか。国民国家システムとして秩序化が図られて

きた世界秩序に代替する、新たな秩序像を模索するのであれば、それはい

かなる世界秩序の在り方であろうか。また21世紀において政治を指導する

原理として世界大に拡大し、覇権的な座に君臨しつつあった民主主義は、

世界秩序の変容に伴っていかに変容しており、また再構築すべきなのであ

ろうか。

本論では以下、第一に政治共同体の構造の変容についての考察を、そし

て第二に(政治共同体の変容に即した)民主主義の変容と来るべき世界秩序形

成における民主主義の寄与の可能性について考察を行いたい。

(2) 永井は既に1979年に「統治可能空間」と「通信可能空間」の乖離につい

て指摘し、それがもたらす問題の重要性を指摘している。永井陽ノ助『時

間の政治学』89頁。近年の国際政治学や政治理論の最重要課題の一つとも

いうべきこのテーマについては、さしあたり EUを事例として、グローバ

ル化する社会や経済、文化と領土にとどまりがちな政治の緊張関係につい

て議論したものとしてMichael Th. Greven, Louis W. Pauly, 2000,

Democracy beyond the State? Rowman+Littlefield参照。

一三七

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第2節 現存した国民国家秩序

本節では、国民国家という歴史的な政治共同体の構造を把握するにあた

り、「いかに人々を統治するのか」という統治性(governability)をめぐる

観点(さらにそれを主権と生権力という観点の二つに分節化する)と、「統治す

る/される人々の在り方」という政治的主体(political subject)をめぐる観

点という二つの観点からのアプローチを試みる。

ここで試論的に主権-生権力-承認の関係を権力論(3)の観点から論じ

ておきたい。本論では国民国家を権力論の観点から把握した場合、それを

三つの権力の焦点として把握することを試みたい。三つの権力とは、第一

に主権、第二に生権力、第三に承認の権力(4)(政治的主体化)である。後述

(3) 主権論の系譜とフーコーの権力論の関係をめぐって、フーコーの文献か

ら綿密な整理を行ったものとして山本哲士2009『ミッシェル・フーコーの

思想体系』文化科学高等研究院出版局を参照。山本は「『主権論』は権力関

係論とは別の域で構成されてあること」(山本2009、394頁)を指摘し、フー

コーの研究が戦争論を経て統治性論に至る事を明らかにしている。本論に

おいても主権論と生権力論という二つの権力論を統治性論の枠組みから

考察しているが、本論もまた「国家なしでの権力関係論でも、権力関係な

しの国家論でもない」権力論の可能性を追求するものである。本論におけ

る主権と生権力という問題構成は、山本による「国家がひとつのトータル

な政治的合理性として機能することは、『死の政治』と『生の政治』がとも

に構成されている」(山本、2009、431頁)という認識と同一のものである。

(4)「承認(recognition)をめぐる政治」という問題系は現代政治理論の中

心課題の一つであるが、本稿では十分に議論を展開できていない。「承認を

めぐる政治」については、Charles Taylor“The Politics of Recognition”

in A Gutmann (eds.), Multiculturalism, Princeton Universwity Press,

(佐々木毅他訳1997『多文化主義』岩波書店)及びNancy Fraser, 1997,

Justice Interrupts,Routledge(仲正昌樹監訳2003『中断された正義』お茶

の水書房)を参照。また承認を「愛の関係」「法的承認」「連帯的同意」の

三形式の統合として把握するA・ホネットの承認論の展開については

Axel Honneth,1992,Kampf um Anerkennung,Suhrkamp(=山本啓・

直江清隆訳2003『承認をめぐる闘争』法政大学出版局)、さらに承認と再

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するように主権と生権力の間には国民の生存の条件を規定するという共通

点があり相互に強化しあう連関がある。生権力と承認の権力の間には領域

内部での生産性を最適化するための全体の調整(全体化)と、個人をそれに

適合する主体として社会的な「承認」の網の眼の中へと配置する(個別化)

という相互補完関係が存在する。さらに承認する権力と主権の間には、「分

割不可能な(individual)」個人として相互承認された主体と、「一にして不

可分」なものとして位置付けされた主権の間に相似形(5)が生成される。こ

の三つの権力形態が組み合わさる焦点に、「第一の近代」において「再埋め

込み」された政治共同体たる国民国家が浮かび上がる、という事ができよ

う。

さて統治性(ガバナビリティ)の観点からアプローチする時、国民国家は

他の形の政体と比較して特異な権力の形態と持っている。第一は既述した

主権という権力形態の保持である。主権は歴史的には、その前身ともいう

べき領域主権国家において既にその姿を現していた権力の形とされるが、

それは国民国家に至っても継続している。主権は領土内(国内)における秩

序化と、領土の外部(国際)における無政府状態(アナーキー)、換言すれば

政府による積極的な秩序化の放棄の正統化を行い、国内政治と国際政治の

論理を分かつと同時に蝶番ともいうべき場所を占めてきたとされる。主権

概念自体が歴史性や地域性を帯びると同時に時には矛盾する性格を持つ論

争的な概念であるが、主流をなした主権論の伝統によれば、権力が国家の

配分の位置づけをめぐってはNancy Fraser,Axel Honneth,2003,Redis-

tribution or Recognition? Verso、日本における研究としては日暮雅夫

2008『討議と承認の社会理論』頚草書房を参照のこと。

(5) 個人概念と主権概念の相似性については、井上達夫2003『普遍の再生』

岩波書店の議論からヒントを受けている。ただし「第二の近代」において、

擬人化された主権国家・国民国家の概念と、個人という概念の双方が揺ら

いでいるのであるならば、さらなる考察が必要である。本論はかかる考察

の試論でもある。竹村和子2000「アイデンティティの倫理 差異と平等

の政治的パラドックスのなかで」『思想』No.913岩波書店参照。

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「上」や「下」に多元化していく動態に抗い、たえず相互承認しあう他の主

権国家との戦争(対リヴァイアサン)、国内における内戦(対ビヒモス)とい

う「例外状態」(6)の想定の上に構築されてきた権力の形態である。このよう

な主権は「第一の近代」においては、究極的には暴力により人々を殺す「至

高の権力」とされ、空間的には領土の内部に限定される一方、時間的には

恒久性(永続性)をその特徴としてきた。

国民国家に特異な形態の権力のもう一つは、「生権力」である。フランス

の哲学者M・フーコーの研究においてその姿を浮き彫りにされた生権力は

人々の生そのものへと介入し、「人々を積極的に生かし、他方で他の人々を

死へと廃棄する」権力であり、さらに人々の生を一定方向へと秩序化する

よう一人一人へと働きかける主体化=従属化(個別化)と、人口全体へと働

きかけ、人口全体の健康状態や衛生状態などを管理・調整する「全体化」

の二つのダイナミズムから構成される。いわば人々を選別しつつ、「家畜」

として飼いならし、同時に群れ全体を管理する権力形態であり、国民国家

においてはその内部の国民へと関心(atttention)を払う権力である。故に

従順な主体として従属化されない人々、いわば「家畜化」されない「動物」

に対しては、主権と結合した形で容赦ない追放や弾圧が加えられていった

のである。

(6) C・シュミットの述べる「政治的なもの」とは友/敵の区別であり、そ

れらが戦争や内戦による物理的殺戮の現実的可能性との関わりをもち続

けるものとされる。Carl Schmitt,1927,Der Begriff des Politischen(田

中浩、原田武雄訳2000『政治的なものの概念』未来社)及び Carl Schmitt,

1963, Theorie des Partisanen: zwischenbemerkung zum Begriff des

Politischen Duncker and Humblot(新田邦夫訳1995『パルチザンの理論:

政治的なものの概念についての中間所見』ちくま学芸文庫)参照。その意

味では国民国家以外にも「政治的なもの」の強度と形を規定してきたもの

として、国民国家の枠を超える冷戦構造やイスラーム教におけるウンマの

ような宗教共同体も挙げられよう。尚、シュミット自身は「政治的なもの」

の担い手を主権国家のみへ限定している。

一三四

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M・フーコーの生権力論を批判的に継承したA・ネグリらが「生政治と

死の政治学(筆者註:ここでは主権をめぐる政治学)は、ときに一体化しよう

とする傾向を持つ。なぜなら、戦争は政治的なものの本質となりうるので、

死の政治学は生政治の母型になりうるからである」(Antonio Negri,2006:16

= 2008:34)と指摘するように、国民国家において主権と生権力が、人々の

生/死の形態を強く規定する権力として、結合してきたことは不思議なこ

とではない。戦争という「例外状態」を国際政治へと放逐すると同時に可

能性としては常に残存させた国民国家は、戦時という「例外状態」におい

て、国民国家が「戦争国家(warfare-state)」として機能するために、「福祉

国家(welfare-state)」の機能の充実を要請されることになった。多くの論

者が指摘してきたように、第二次世界大戦において頂点を極めた「総力戦

体制」はまさに両者の結合が最高点に達した産物であり、第二次世界大戦

後に自由主義陣営において黄金期を迎える福祉国家がその裏面において、

様々な側面で「戦争国家」の論理と類似性(7)を持っていた(痕跡をとどめて

いた)事を想起されたい。

統治性から国民国家にアプローチした場合、確認しておくべきは、主権

と生権力はあくまで世界大で作動するものではなく、「第一の近代」におけ

る「再埋め込み」の結果として形成された国民国家内部において作動する

ものであり、国民国家の外部においては統治性から逃れる統治不可能な他

者を抱え込んだものであり、「牧場の外側」ともいうべき「他の牧場=他国」

に対しては(積極的には)介入することをしない権力形態であるという事で

ある。

次に政治的主体かつ承認される主体の観点から国民国家へとアプローチ

する時、国民国家は近代において誕生したにも関わらず、あたかも前近代

にその始まりを持ち何らかの「本質」をもっているが如く立ち現れる「国

(7) 戦争国家と福祉国家の相互補完性及び連続性については、さしあたり山

之内靖、成田龍一、J・ヴィクターコシュマン1995『総力戦と現代化』柏

書房を参照。

一三三

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)22

Page 23: K H0 9 1 Y 1 世界秩序の構造変動と来るべき民主主義⑴repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30036/rhg033...えていく」(Gidens,190:38=193: 5)ことである。このような再帰性の

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民」を政治主体として形成されている。近代において分岐されるに至った

国内政治及び国際政治においては(人為的側面と「自然」的側面が混合し産業

化の過程へ適合してきた)この「国民」という政治主体が他の集団-例えば

宗教共同体、村落共同体、自治都市、帝国など-を圧倒し政治的な自律性

を奪い、また様々な境界線や亀裂が作る共同性-「階級」や宗教共同体な

ど-を解体し(脱埋め込み)、「国民」という形へと再形成する(8)(再埋め込

み)「われわれ」形成の政治過程における主導権を握ってきた。「国民」は、

空間的には「想像の共同体」として、現在における人々に共通の時間・空

間を生きているという「想像」を植付け、ナショナルな統合を推し進めた

だけではない。時間的にも連続性の感覚を人々へ付与し、過去の人々と現

在の人々を「公的記憶」を媒介に同一化させ、同時に未完の形成過程であ

りながらも、現在の人々を未来においても集団的な形で拘束してきた(「運

命共同体」)のである。この「国民」という単位は、前近代的なローカルな

文脈から脱埋め込みされた個人にとって、新たな identityの拠り所となり

人々に集合的な承認(9)を与えてきた。

(8) 同化主義の暴力性とそれに対する抵抗と交渉の過程については日本の

事例として、小熊英二1998『日本人の境界』新曜社を参照。

(9) この集合的承認から排除された人々、例えば少数民族や移民、女性たち

は一方では多数派への過剰同一化ともいうべき「国民としての承認」を希

求し、他方で多文化主義に見られるような他の形態の identityを希求す

る、もしくは identityという形態自体に抵抗し「クレオール化」や「ハイ

ブリッド化」、「名指しと無視の双方からの脱出」に抵抗の可能性を見出し

てきた。他の形態の identityの希求として多文化主義やそれをめぐる問題

圏についてはオーストラリアを事例に理論研究と実証研究の両側面から

アプローチした塩原良和2005『ネオリベラリズム時代の多文化主義』三元

社を、また identityの対象への一元化する圧力に抗してそれを脱構築する

戦略については、大西洋に広がる奴隷化された黒人達の公共圏の歴史的経

験から「変容の政治」を提唱する Paul Gilroy,1993,The Black Atlantic,

Versoや、植民地主義と脱植民地主義の狭間で宗主国/植民地をはじめ多

国を渡り歩く自らの positionalityから「ポストモダンエスニシティ」を提

唱する Ien Ang,2001,On Not Speaking Chinese,Routledge参照。セク

一三二

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 23

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「国民」は政治的主体としても国内政治の基礎として国内の多様な政治

的社会的亀裂を封じ込めると同時に、国家間の亀裂に国民間の亀裂を重ね

て補完することで国民国家を国際政治における「独立」した主体として構

成してきた。その意味において国民という政治的主体は、ナショナルな統

合と国民による世界の分断というメタレベルでの政治の構図を形成すると

同時に不問の前提とすることで、近代における国内政治と国際政治の分岐

を補完してきたのである。

統治性の側面から、そして政治的主体の側面から国民国家の特徴を素描

してきたが、以上の議論からもわかるように国民国家とは何より歴史的な

構築物であり、主権と生権力という統治性の一定の形態と、国民という政

治的主体が歴史的に節合したことにより、通常はその節合を再審されるこ

となき政治の前提条件として成立してきた政治共同体である。また「戦争

と革命の20世紀」において、国民国家は潜在的な戦争へ備えると同時に、

潜在的な革命を封じ込める「主権・生権力・国民」というトリアーデが組

み込まれた「第一の近代」における歴史的構築物であることを確認してお

きたい。

以上、論じてきた「第一の近代」において「再埋め込み」された政治共

同体たる国民国家を、時間的・空間的側面から見るのであれば、そこには

統治性の側面から見ても、政治的主体の側面から見ても、時間的永続性と

空間的限定性という特徴が備わっていた。歴史を紐解けば、国家自体の解

体や国境線の変更は頻繁に生じた現象である。それにも関わらず、「第一の

近代」を駆動させてきた時間的柔軟性(可変性)と空間的移動性(開放性・

普遍性)や個人的・社会的再帰性と真っ向から対立することをせずに、それ

を時には意識的に活用し、時には無意識的に歩みを共にしつつ、一定の制

度の下で封じ込め、時間的永続性と空間的限定性を世界秩序を規定する「普

シュアリティをめぐり「承認される事」にも「抹消されること」にも距離

を取る戦略を提示したものとして掛札悠子1992『「レズビアン」であると

いうこと』河出書房新社を参照。

一三一

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)24

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遍的」な規範として構築してきた時代が「第一の近代」であり、国民国家(10)

こそがその「第一の近代」の中心的な政治共同体であったのである。

第3節 世界秩序の変容

しかしながら「第二の近代」においては、「第一の近代」において「再埋

め込み」された諸制度は再び「脱埋め込み」され無限の時空の広がりの中

に投げ込まれることとなる。国民国家もその例外ではない。藤田省三の言

葉を借りれば「時間的・空間的エンドレスネス」の全面化した時代におい

て、国民国家という政治共同体はいかに変容しつつあるのだろうか。また

何かしらの形体で再び「再埋め込み」されてあらたな形態の政治共同体と

して再結晶化する(11)のであろうか。

国民国家の変容及び新たに現れつつある政体の構成を分析すべく、再び

統治性(governability)の観点と、政治的主体の観点からアプローチをしよ

う。

(10) 多くの場合、国民国家体制の形成は、「外部」としての植民地形成過程を

伴うものであった。植民地主義/脱植民地主義をめぐる議論は国民国家形

成をめぐる議論と表裏一体の問題系であるが、本論では直接論じる事は行

わない。植民地主義をめぐる古典的名著として Edward W. Said, 1979,

Orientalism,Vintage(今沢紀子訳1993『オリエンタリズム』上・下、平

凡社ライブラリー)参照。

(11) かかる問題意識は、近代化の持つ「脱埋め込み」と「再埋め込み」のベ

クトルの緊張関係が高まる時期に度々噴出し、様々な思想や社会運動、政

治行動を引き起こしてきた。例えば日本では個人主義・自由主義・民主主

義及び国民国家の限界という認識から新たな世界秩序構想を示した京都

学派の「近代の超克」論や昭和研究会の東亜共同体論、ドイツにおけるラ

ウム論などの諸思想と、今日における国民国家の限界と代替構想としての

地域主義の可能性を模索する議論の相違点と共通点についても、今後重要

な研究課題の一つとなろう。

一三〇

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 25

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⑴ 統治性(ガバナビリティ)の観点から

第一に統治性の観点から考えた場合、まず主権をめぐっていかなる変容

が生じているであろうか。第一に主権の観点から考えたい。主権について

は、さしあたり領土内(国内)における秩序化と、領土の外部(国際)にお

ける無政府状態(アナーキー)、換言すれば政府による積極的な秩序化の放棄

の正統化を行い国内政治と国際政治の論理を分かつと同時に蝶番ともいう

べき場所を占めてきた事に言及した。最終的には「殺す権力」を発動する

主権がその相貌を人々の前に明確に現わす究極的な事態は「平時」ではな

く、戦争をはじめとする「例外状態」である。主権は国内における秩序化

が危険にさらされ、国際政治と国内政治の論理が交錯する「例外状態」に

おいてこそ、その姿を見せることになる。(換言すれば、平時において主権と

いう権力形態を明確に認識できる側面は極めて少ない、という事になる)

この戦争という暴力は、主権国家と主権国家の間で戦われる紛争に他な

らない。戦争はあくまで主権国家によって担われるのであり、ウェストファ

リア秩序の下では、いかに大規模なものであろうとも、主権国家以外のア

クターによる暴力については、戦争と定義されず内戦や革命、犯罪といっ

た語彙によって定義され戦争からは排除されてきた。

主権がその輪郭を最も明確化する事態(の一つ)である戦争について考察

してみると興味深いデータが見られる。第二次世界大戦後の戦争、すなわ

ち主権国家間での武力衝突は激減しているのである。人類は戦争という暴

力から解放されつつあるのであろうか。しかしそれに代わって内戦やテロ

といった非国家的主体による暴力の数は増大している。このような暴力の

形態の変化を国際政治学者であるM・カルドアは「古い戦争」から「新し

い戦争」(12)への変化として論じている。

(12) カルドアはここで述べた「新しい戦争」に加えて、21世紀における戦争

の形態として、高度な軍事技術を背景に市民が生命を犠牲にする覚悟をも

たず、また政府もあらゆる権利の保証を放棄して戦争を遂行していく「見

世物的な(スペクタル)戦争」、大規模な移行国家、具体的にはロシアやイ

一二九

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)26

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カルドアによれば、「新しい戦争」とはいわば「戦争の拡散」であり、「戦

争と、その他の行為の区別が不明確になってゆく過程」とされる。カルド

アによれば、「新しい戦争」へと参入する集団は当事者である主権国家のみ

ならず、準軍事集団(民兵など)、義勇軍、犯罪組織、ゲリラ部隊、「テロリ

スト」、非正規軍、警察、民間警備会社(傭兵派遣など)などの非国家的主体

が混在することになる。加えて国際社会や軍事同盟などの合意があれば、

国際社会からの介入によって他国の正規軍や治安関係部隊もこれに参入す

ることになる。これにともなって正当な戦闘員と不当な戦闘員、犯罪者、

警察、非戦闘員・市民の区別は状況によって変化するため、流動的になっ

ていく。ここでは、もはや戦争(主権国家間の政治的動機により行使される暴

力)と、その他の暴力行為、例えば組織的犯罪(私的組織による私的な目的、

特に経済利益を目的のために行使される暴力)やテロ(主権国家や政治的に組織

化された集団が政治的目標達成のため行使する暴力)の区別をすることは困難

になる。第二に、戦闘地域/非戦闘地域の区別も流動化するため、国際政

治と国内政治の境界線も融解することになる。「新しい戦争」はポール・ヴィ

リリオの言葉を借りれば「戦闘部隊、戦旗、前線、宣戦布告、停戦協定な

どの手段で戦闘と殺戮の場所を決めて行われなくなり(「テロから黙示録

へ」ArchivAboVerkaufsstellenAnzeiLettre International、2001年10月1日

号)「宣戦布告も終戦もない。平時と戦時の区別もない。国境の内外の区別

もない。市民と戦士の区別もない。テロリストと自由の闘士の区別もない

…」「世界内戦」である。(ジョルジ・アガンベン「秘密の共犯関係」Frankfuruter

Allgemeine、2001年9月20日号)ことになる。われわれは、潜在的に常にグ

ローバル規模で戦争状態に入っている、という事になるのである。

ンド、中国など集権的な経済システムから国際的な開放市場を志向するシ

ステムへ移行しつつ瓦解を免れている国家群が古典的な軍事力を使用す

る「ネオ・モダン戦争」の三つを挙げている。Mary Kaldor,2003,Global

Civil Society Polity Press, ch5(山本武彦他訳2007『グローバル市民社

会論』法政大学出版局、第5章)参照。

一二八

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このような戦争の性格の変化、それに伴う主権の性格の変化を「第二の

近代」における時間と空間の組み合わせの変化から見た時、どのように把

握できるであろうか。

空間的側面から見るのであれば、「殺す権力」である主権はもはや国家と

のみ結合している、とは把握できない。主権は排他的に国家とのみ結合す

るのではなく、「新しい戦争」を担う非国家的主体によっても行使され、空

間的にはいかなる場所であれ、国境を越えて敵体性(antagonism)が拡散

し、主権の下での国内秩序と国際社会のアナーキー(無政府状態)の区別は

流動化もしくは無効化することになる。ここに至って国家による主権の独

占の終焉は可視的なものとなる。たとえ他の主権国家による承認があって

も、それは実質を伴わない形骸となっていく。

主権はいまや国家のみならず国家の上位にある様々な国際機構(地域共

同体や軍事同盟、国連など)、または下位の「地域」によっても担われ、マル

チレベル化すると同時に、私的アクターとみなされてきた様々な集団(先に

挙げた民兵組織や準軍事集団、「テロリスト」、義勇軍など)によっても担われ

ネットワーク化している。むろんこうした解釈に対しては、反論は予期で

きよう。第一に「主権(国家)の存否は他の主権国家から承認されることに

依存している」という見解である。しかしながらこの「公式見解」はウェ

ストファリア秩序を前提とした時に有効性を持つ見解であり、形骸化しつ

つあると言えるのではないだろうか。一方ではソマリランドのように主権

国家としては認められない地域でありながら、高いレベルでの秩序化がな

されている地域があり、他方では主権国家として他の主権国家群から承認

されつつもアフガニスタンのような「失敗国家(failed state)」、さらにはソ

マリアのような「崩壊国家(collapsed state)」となり主権国家のモデルから

はかけ離れた現実に直面している諸国も多い。地域によっては、一部の主

権国家が主権国家として承認しつつも、他の国家群によっては主権国家と

して承認されていない地域もある。また EUなどの事例においても近年の

研究が明らかにしているように、一定の分野における政治過程は、主権国

一二七

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)28

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家間での政治過程として説明(inter-govermental approach)することが困

難になり、かわってmultilevel governanceや network governanceと

いった観点からのアプローチが主流となっている。EUにおいては、すでに

主権という概念の持つ限界や歴史性が明確化されている、と言えよう。こ

のように「他の主権国家からの承認」はウェストファリア秩序の自明性が

リアリティを持っている時代においては主権の存否のメルクマールとなっ

てきたが、「殺す権力」が空間的に偏在化する時代においては、主権の存否

の要件と考えることによって、逆に主権概念の形骸化(13)を招きかねない。

(13) 主権も歴史性や論争性を持つ概念である。主権概念を拡張することによ

り主権概念自体の意味が失われる危険性も存在するが、他方で伝統的な主

権概念から漏れ出る現象に対して主権概念からの逸脱や例外として説明

することによって不可視化される問題があることにも留意されたい。例え

ばソマリア北部における「ソマリランド共和国」は、1991年以来内戦状態

にある(ソマリランドの地域を除く)ソマリアと比較して政治的安定が達

成され、複数政党制による地方選挙や総選挙の実施、現時点までに三人の

大統領の間のスムーズな政権交代など民主化の進展も認められる。しかし

この「事実上の国家(de facto state)」は国際的には主権国家として承認

されていない。(背景として多くのアフリカ諸国がソマリア同様にクラン

や民族をめぐる分離独立問題を抱えていることが指摘されている)他方ソ

マリアは一時イスラーム主義勢力による暫定政権が成立したが、アメリカ

とエチオピアの介入で崩壊し内戦が継続している。それにも関わらず主権

国家として承認する国家も多い。(なお日本政府は未承認である)。ここで

は概念にあわせて現実をゆがめる、所謂「プロクルステスの寝台」の危険

を回避する方向へ重点を置きたい。遠藤(2006)の議論を参考にすると、

近年では国際法の分野における議論として「宣言的効果理論」では「国家

性の要件の具備」についての確認は承認の課題ではないと考えられ「新国

家は、国家としての資格要件を確立して事実上成立した時点から、他国に

よる承認の有無にかかわりなく、国際法上も法主体として存在する」とさ

れている。他方で「創設的効果理論」では「国家性の要件の具備」が承認

メカニズムによって確認されるべきであると論じられ「新国家は、実効支

配を確立しただけでは社会集団としての事実上の存在に過ぎず、既存の国

家による承認を得てはじめて、国際法主体としての資格が与えられる」と

されている。同様にA・ギデンズも近代国家の形成と近代の「国家間シス

一二六

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 29

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さて主権と国家の結合の擬制性と歴史性が浮き彫りにされ、主権が領域

国家を越えてフレキシブルに再編され、多様な形をとって世界という空間

の広がりのどこにでも現れ得る地平が開かれつつある事を確認したが、次

に時間的側面について考えてみたい。

時間的側面から見るのであれば、主権についてもその柔軟化(フレキシブ

ル化)、すなわち主権の属性の一つとされてきた「永続性」の消失をあげる

事ができる。既述したように、「新しい戦争」や「世界内戦」においては、

主権がその輪郭を明確化する「戦時」と「平時」に区別はつきにくい。低

強度紛争(LIC)という戦争と、高強度ポリシング(警察行動)の区別は困

難であり、主権の存立の外部に潜在的に想定していた戦争や内戦という「例

外状態」が強度の強弱はあれ日常化することで、「主権がどれだけの時間、

国家に独占化されているように見えるか」という問題が前景化する。

そもそも国内秩序の維持という主権の効果は、「反政府の革命勢力や叛徒

が全国の全ての交番や警察、軍隊の所在地に同時に襲うことによって各拠

点の実力を試すことが不可能だという事実によって担保されている」(永井

陽之助1979、101頁)のであり、「人は権力に、いつでもあらゆる箇所におい

て使行し得るものとしての実力を仮定するが、権力を実際にはその力を、

テム」の形成の同時性、対内的及び対外的な再帰的モニタリングを重視し

ている。本論の立場は上記の「宣言的効果理論」と親近性が高いものと言

えるであろう。これらの議論をめぐっては、王志安1999『国際法における

承認-その法的機能および効果の再検討-』東信堂、芹田健太郎1996『普

遍的国際社会の成立と国際法』有斐閣、遠藤貢2006「崩壊国家と国際社

会:ソマリアと「ソマリランド」」川端正久・落合雄彦編『アフリカ国家を

再考する』晃洋書房、Kreijen, Gerard (2004)Sate Failure, Sovereignty

and Effectiveness,Leiden:Martinus Nijihoff Publishers.などを参照のこ

と。主権論については多様な思想的系譜があり、その定義をめぐって百家

争鳴の感が否めない。例えば政治理論や政治思想以外でも、国際政治学で

の代表的研究として S. Krasner (1999), Sovereignty: Organized Hypoc-

risy,Princeton University Press、社会学での代表的研究としてA.Gid-

dens (1985),The Nation State and Violence,Polity Press.を参照。

一二五

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)30

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ある一定の時期に、ある一か所にしか発揮できないのである。要するに、

すべての権力というものは、信頼によって取引をしている営業所と立場が

全く同じである」(永井、1979、101頁。原典はポール・ヴァレリィ「精神の政

治学」邦訳107頁『ポールヴァレリィ』全集11巻)とするのであれば、主権の

「絶対性」は「第一の近代」における時間の部分的開放という条件によって

維持された相対的なものにすぎず、その「永続性」もまた「第一の近代」

における「時間的冗長性」という条件を失い、人々の信頼を同時に損なう

事態に陥れば、時限的なものや雲散霧消するものとなる。

もはや国家は主権を永続的に独占する存在である、という擬制を保つこ

とは困難となり、他のアクター(非国家的主体)が独占しているかのように

見えることもあれば、そのような「殺す権力」もまた時限的なものとして

捉えられるようになりつつある。時間の経過にしたがって「殺す権力」に

関わるアクターは変化していき、一方では新たなアクターが参入し、他方

では「撤退」していくアクターも存在する。同時に主権として結晶化する

権力関係自体も離合集散し、時には主権の存在自体はほぼ意識されること

なき問われざる前提のような次元にまで不可視化される時もあれば、急速

にその姿を前面に現すこともある。

米国を中心とする「有志国連合」のイラク攻撃やアフガ二スタン攻撃の

事例のように、ある領域国家群の殺す権力が領域性を越えて「絶対性」を

まといつつ、しかし「永続性」を持たずに(時限的に)主権の如きその姿を

現す一方で、イラクやアフガニスタンという領域主権国家の主権は存在し

ないも同然の扱いを受ける事がある。また領域主権国家の内部、もしくは

国境を越える集団や個人-例えば「テロリスト」が「9.11」のニューヨー

クにおいて、2008年のムンバイにおいて、一定空間において一定の時間、

至高の権力を握り、あたかも主権を有しているが如く振る舞う光景を我々

は目撃している。いかなる領域国家であれ、主権自体が単一不可分で一元

的な確固としたものとして永続している、という擬制は「第二の近代」に

おいては崩れつつある。時には凝固して一元化することもあれば、時には

一二四

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 31

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融解してネットワーク上に分散して展開する関係的な権力としての主

権(14)の姿は、国民国家の持つ統治性の変容を示していると言えよう。

次に統治性のもう一つの極とも言うべき「生権力」の観点から、「第二の

近代」における「統治性」の変容について考えよう。既述したように「生

権力」とは、人々の生そのものへと介入し「人々を積極的に生かし、他方

で他の人々を死へと廃棄する」権力である。この生権力の特徴は「第一の

近代」においては、主として国民国家の内部において作動する権力形態で

あった点があげられる。健康、福祉、教育、性規範、生活習慣といったテー

マと、学校、労働の現場、家族、病院、各種の保険制度に至るまで事物の

適切な配置とミクロな権力の網の目を張り巡らせることによって、生権力

は「再埋め込み」された国民国家の内部で差動してきた事は既に確認した。

空間的観点からこの「生権力」へとアプローチした場合、興味深いこと

は、生権力の対象はもはや国境の内側に住まう人々の生に限られず、時に

は国境の外側に住まう人間の生にも介入し積極的に生かすと同時に、国境

の内側に住まう人間であっても死へと廃棄するように変容している側面で

ある。「第一の近代」において生権力は国民国家の存立を確固たるものにす

る効果を持ち、例えば第二次世界大戦後の西側陣営においては福祉国家と

いう形へと制度化されていき、東側陣営においても共産主義国家という形

(14) このような関係論的な権力としての主権像は、主権論の多様な系譜の存

在を想起させると同時に、それらが排他的ではなく「もうひとつの主権」

の在り方を垣間見せる主権論の新たな地平でもある。われわれは長い期

間、主権国家体系とそれに基づく政治秩序を自明視することにより、代替

的な政治秩序の構想を考える際にも主権国家モデルを内面化している、と

批判するものとして野崎孝弘2006『越境する近代』国際書院207頁や、主

権概念や国家概念の持つ思考の拘束性を問題化する Jens Bartelson,

2001,The Critique of the State,Cambridge(小田川大典、乙部延剛、五

野井郁夫、青木裕子、金山準訳『国家論のクリティーク』岩波書店)及び

Jens Bartelson,1995,A Genealogy of Sovereignty,Cambridge Univer-

sity Pressを参照。

一二三

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)32

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へと制度化されていった。しかしながら「第二の近代」において国民国家

以外にも統治のアクターが拡散することに伴い、生権力もまた国民国家の

内部でのみ作動する形体を取らなくなりつつある。一方では国家の上位に

ある様々な国際機構(EUなどの地域共同体やWHO、ILOなど)、または下位

の地方自治体も生権力の結節点として浮上し、マルチレベル化すると同時

に、私的アクターとみなされてきた様々な集団や組織(企業や社会運動、

NGOやNPO、社会的企業、宗教組織など)もまた生権力の重要な結節点とし

て浮上している。1980年前後の米英中心の新自由主義的政権の誕生から始

まり、2008年のサブプライムローン問題に続く「リーマンショック」を端

緒として世界恐慌に至る過程で、既に生権力が脱領域国家化している事は

可視化されているといえよう。もはや世界のどこの国家においても生権力

の外延は不確実であり、「世界第二位の経済大国」たる日本でも、「先進国

中第二位の貧困率」の格差・貧困社会に、さらに世界恐慌の波が覆いかぶ

さり「派遣切り」や大学生の内定取り消しは常態化し、正規雇用労働者す

らも解雇の対象とされている。2008年末から2009年の初頭において、生権

力の象徴ともいうべき日本の厚生労働省の目前に「派遣村」が出現し厚生

労働省が派遣村の人々の生命を守るために講堂を開放せざるを得ない、と

いう事態に至るまで生権力(と生政治)をめぐるせめぎ合いは先鋭化し可視

化されつつある。

時間的観点からアプローチすると、生権力はかつて「揺り籠から墓場ま

で」と言われたように、全人口の生の全過程において介入するものではな

くなりつつある。ここでも人々を積極的に生かす「事物の適切な配置」は

大きく変容し、時間の経過に伴い人々の生へと介入するアクターは変容す

ることが常態と化している。世界恐慌に見られるように、昨日まで「積極

的に生かす」対象となっていた人々は、翌日には倒産や失業に見舞われ「死

へと廃棄」される危機に陥ることとなっている。国家や中間集団が担って

きた「安全網」は新自由主義が席巻する中で解体し、生権力の外延の変化

は著しく変わりつつある。「積極的に生かす」対象となる人々と「死へと廃

一二二

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 33

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棄される」対象となる人々の間には、たしかに強い濃淡は存在するものの、

前者と後者を分け隔てる壁は削られつつある。「第二の近代」においては「い

つ、どこで誰を生かし、死へと廃棄するのか」という基準は不明瞭なもの

となっている。イタリアの労働運動から生まれ日本にも定着しつつある不

安定性雇用層を意味する「プレカリアート」(15)や「ハビトゥスなきハビトゥ

ス」と呼ばれる(Paolo Virno,2008)労働習慣の不安定性の恒常化は、かか

る生権力の時間的柔軟性を個人の側から把握したものと言えよう。時間的

観点から見て、生権力の外延が流動性を高める時、社会は持続性可能性を

失い、脱歴史化され(脱物語化)され、人々の生は断片化されて「自己責任」

という新自由主義の教義の中で集合化する力を喪失し、個人化されていく

ことになる。人々は自らの生を守り彩る様々な安全網や保護繭を失ってい

き、経済的貧困のみならず、社会全体から排除されていく。また連帯や社

(15) 不安定雇用、不安定な生をめぐる問題群について近年、多様な研究や社

会運動が進展している。かかる変化を「管理社会」化として把握するもの

としてA.Negri, M. Hardt, 2001,Empire, Harvard University Press

(水嶋一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳2003『帝国』以文社)、「個人

化」として把握するものとしAlbert Melucci,1989,Nomads of the pres-

ent,Temple University Press(山之内靖、貴堂嘉之、宮崎かすみ訳1997『現

在に生きる遊牧民』岩波書店)やUlrich Beck, Elisabeth Beck-Gern-

sheim,2002 Individualization, Sage参照。ただしメルッチは個人化が惹

起する問題の深刻性に注意を促している。また主権と生権力の交錯点を

「人権の終焉」や「ゾーエーとしての生」の観点から把握するものとして

Giorgio Agamben,1995,Homo sacer, Einaudi(高桑和巳訳・上村忠男

解題2003『ホモ・サケル』以文社)など。日本における研究として、社会

問題が個人の精神的問題として還元される「心理学化」を批判的に分析し

た樫村愛子2003『「心理学化する社会」の臨床心理学』やアレントを参照

しつつ「難民」概念からアプローチを図る市野川容孝2006『社会』岩波書

店参照。また社会運動の次元でも「プレカリアート」の生存をめぐる運動

が日本でも新たな展開を見せている。例えばフリーター全般労働組合によ

る「自由と生存のメーデー」の活動について、http://freeter-union.org/

mayday/call.htmlを参照せよ。

一二一

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)34

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会統合が低下するに伴い「第一の近代」において「再埋め込み」されて構

造化された国民国家は、「第二の近代」においては連帯や社会統合を提供す

る力を弱めていくことになる。しかしまたそれは同時に、代替的な経済・

社会システムの可能性を開く可能性にも満ちている。国民的な連帯や国民

的な社会統合が崩壊していく中で、国際的な連帯や国境を超える統合、さ

らには統合や連帯といった概念を越える経済・社会システムの創造(16)の可

能性もまた問われている。

「第二の近代」において、生権力は国民国家という制限された時空から

解き放たれ、空間的には脱領域国家化しグローバル化し、時間的には柔軟

化・流動化することで「いつでも、どこでも」人々を「積極的に生かされ

る」可能性と同時に「死へと廃棄される」危険性(特に世界恐慌の深化・拡

大は後者の危険性を増大させている)を持つ権力として作動し続けていると

言えよう。

小括 主権・生権力の変容~ガバメントからガバナンスへ

⑴ 統治性の変容

まず主権の変容についてまとめておこう。一方で主権は脱中心化され国

民国家との結合を解除され、多様なレベル、すなわちスープラナショナル

(16) 例えば代替的な経済・社会システムについての各地域での模索や、資格

を問わない連帯の模索として近年注目されているベーシックインカム論

については、山森亮2009『ベーシックインカム入門』光文社新書参照。ベー

シックインカム論の中には労働規範の相対化まで射程に含むものもある

が、さらに本格的に労働概念の再考を進めたものとしてAndre Gorz,

1990,Critique of Economic Reason,Verso(真下俊樹訳1997『労働のメ

タモルフォーズ 働くことの意味を求めて-経済的理性批判』緑風出版)

参照。また2001年以降、金融危機に襲われたアルゼンチンにおいて出現し

た独自の経済・社会システムについて廣瀬純、コレクティボ・シトゥアシ

オネス2009『闘争のアサンブレア』月曜社参照。ここでは政治と経済、生

活の分化や代表制民主主義、資本主義経済自体が相対化される事態が生じ

ていた事がわかる。

一二〇

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 35

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なレベルやサブナショナルなレベル、トランスナショナルなレベルへとマ

ルチレベル化すると同時に、他方ではプライベートな領域におけるアク

ターとして主権国家システム(ウェストファリア・システム)という主権の相

互承認のシステムからは排除されてきたアクターとも結合しつつあり、そ

の意味でネットワーク化している。主権は国際/国内、公/私という境界

線を横断する形態でその姿を変えている。同時に主権は「永続性」をも失

いつつある。既に論じたように、主権は時には国家をはじめとする諸制度

の元で永続性を持っているかのように見えながら、時には主権は時限的な

ものとなり、フレキシブル化が進んでいる。時間的にみれば主権は永続性

を失いいつでも凝集化/解体する存在となり、また空間的に見ればどこに

でも凝集化/解体する権力関係の焦点としての性質を可視化させつつあ

る。

次に生権力について見てみよう。生権力は国民国家という制限された時

空から解き放たれ、空間的には脱領域国家化しグローバル大に拡大して作

動すると同時に多様なレベル、すなわちスープラナショナルなレベルやサ

ブナショナルなレベル、トランスナショナルなレベルへとマルチレベル化

している。他方ではプライベートな領域におけるアクター、例えば企業や

家族、地域共同体とのネットワークを発展させ、その意味でネットワーク

化している。生権力は領土内の人口や国民の生を管理・調整し、個別化と

同時に全体化する権力の技術を使用して国民国家の生産力が最大化するべ

く事物の適切な配置を行う最適化の権力ではなく、その輪郭を把握するこ

とがきわめて困難なものとなっている。生権力は国際/国内、公/私とい

う境界線を横断する形態でその姿を変えていると言えよう。

また時間的にも、生権力は柔軟性・流動性を高めることで「揺り籠から

墓場まで」と言われたように人々の生を始まりから終わりまで管理・調整

するものではなく、時には集中的に個人や集団の生へと介入し、また時に

は生への介入を放棄したが如くふるまう権力へと変容しつつある。「第二の

近代」における統治性の一つの極ともいうべき生権力によって、人々は「い

一一九

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)36

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つでも」「どこでも」「積極的に生かされる」よう調整・管理されると同時

に、また「いつでも」「どこでも」「死へと廃棄される」危険が可視化して

いる。そして総力戦体制に象徴されるような主権と生権力の構造的な結合

は解除され、現在はまさしく時間的にも空間的にも変容しつつある主権と

生権力が新たな再結合/分離の様式を模索している、と言えるのではなか

ろうか。その意味において、われわれの生は「殺す権力」と「生かす権力」

の間で、新たな可能性へと開かれると同時に、きわめて不安定な状態にお

かれている。

⑵ 政治的主体の変容

次に「第二の近代」における国民国家へと政治主体の観点からアプロー

チしよう。既述したように、「国民」は国民国家における政治主体かつ人々

に承認を与えるとして集合的 identificationの対象として、他の集団-例

えば宗教共同体、村落共同体、自治都市、帝国など-を圧倒し、それらを

解体し(脱埋め込み)、呑みこむ形で再形成され(再埋め込み)「われわれ」形

成の政治過程における主導権を握ってきた。しかし「第二の近代」におい

て「国民」の自明性も揺らぎつつあり、人々は「国民」という自明性を帯

びてきた単位から「脱埋め込み」され、新たな共同性の可能性に満ちた地

平へと投げ込まれている。

ベックらが指摘するように「第二の近代」においては、われわれ/他者

の関係性は再審されることとなる。「第一の近代」において、国民国家とい

う一定の時間的・空間的な関係性へと制度化されてきたわれわれ/他者の

関係性は、「第二の近代」における時間的・空間的関係性の変容によって再

編されるのである。

空間的には、国民は「想像の共同体」として、現在における人々に共通

の空間を生きているという「想像」を植付けてきたが、偏差を伴いつつも

世界大に通信網や情報網が発展、人々や情報、思想や文化の移動が加速化

する現代、一方では国境を越える「想像の共同体」を形成する人々がおり、

一一八

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 37

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他方では国民よりも小さな「想像の共同体」を形成する人々が増加しつつ

ある。従来、「想像の共同性」をめぐる政治過程において、主導権を握って

いた「国民」という単位に対して、これらの他の「想像の共同性」は時に

はそれを上回るリアリティを確立することがある。もはや国民という「想

像の共同体」は「自然」の単位ではなく、その作為性が明らかになり、同

じ土俵の上で「想像の共同性」の覇権をめぐる政治過程へと参入する無数

の「われわれ」の中の一つへと変わりつつある。また時間的にも、「記憶を

めぐる内戦」が示しているように「国民の歴史」や「国民の伝統」が自明

のものではなくなっている。ギデンズ達によれば、再帰的近代化の進展す

る「第二の近代」においては、伝統は自らの存立について説明責任を負う

ようになる。この意味で伝統や歴史は自明のものではなくなり、「国民の歴

史とは何か」「国民の伝統とは何か」をめぐる論争の対象へと変容し、歴史

や伝統は国民を過去から支える超越的な審級の座を失うことになる。現在

を生きる、いかなる範囲の人々が、過去のどの時点の、いかなる範囲の人々

と時間的連続性をもつのか、それ自体が問われているのである。

同時に人々は未来において国民が「運命共同体」として機能する可能性

について無条件に信頼することが困難になっている。時間と空間がもたら

す秩序が再編され、「われわれ」の範囲がどのように、いつ変わるのか、不

透明性の増大する「第二の近代」においては、現在における「われわれ国

民」と未来における「われわれ国民」を同一視させる力は減退せざるを得

ない。

国民という単位は、前近代的なローカルな文脈から脱埋め込みされた個

人にとって、新たな identityの拠り所となり、人々に集合的な承認を与え

てきた。しかし「第二の近代」においては、国内政治/国際政治の分岐の

前提条件として不可視化されてきた「国民とは何か」という問題が前景化

し、政治的主体として国民は人々に安定的に identityを与え集合的な承認

を与える事が難しくなっている。

それにかわって一方では新たな形態の集合的 identityの単位として宗

一一七

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)38

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教やエスニシティなどが台頭し、他方では S・ラッシュの言うように「われ

われ」という「自然な」範疇が体系的に不可能となった社会において、iden-

tityの投錨先を喪失し「故郷喪失者」として「難民化」する人々を産み出し

ている。われわれ/他者をめぐる境界線は変動し、旧来の境界線から解除

されて新たな境界線を引き直し、新たな政治的主体が生成されると同時

に、他方では旧来の境界線から解除されるのみならず、新たに境界線を引

くことができず、政治的主体として結晶化されることが不可能となる人々

もまた存在する。「第二の近代」において、再び国民から「脱埋め込み」さ

れ時間と空間の無限の広がりの中に投げ込まれた人々は、国民を作り出し

てきた境界線が相対化される中、国民を作り出してきた境界線からの自由

や新たな境界線を引く自由を手に入れる可能性へと開かれると同時に、国

民という境界線のみならず、あらゆる境界線を喪失するリスクや、宗教や

民族などのシンボルに揺らぎなき超越的な審級としての位置を与え暴力的

に境界線を引きなおす「再帰的伝統化」のリスク(たとえば排他的なネオ・

ナショナリズムや宗教的な原理主義など)に直面しているのである。大澤が指

摘するように現代のナショナリズム(17)は「人が民族の差異に拘泥すること

の社会的な必然性が全くなくなってしまったかのように見えるまさにその

ときに、現われている」(大澤、2007、442頁)のである。主権・生権力とい

う統治性と共に、国内政治と国際政治の分岐という政治のメタレベルでの

構図を形成してきた国民という政治的主体は大きな揺らぎ(18)の中にあ

(17) 大澤は国民が存立する社会的な「必然性」として①政治的単位と文化的

単位の一致がもたらす経済に即した機能的価値(例えば E・ゲルナーの議

論)②主要なメディアの情報収集・発信の範囲③人の移動(②や③の議論

の例としてアンダーソンの議論)の三点を挙げ、現代世界における三条件

の無効化を指摘している。大澤真幸2007『ナショナリズムの由来』講談社

442-3頁。

(18) 同様の揺らぎは、国内の政治的主体(例えば政党)やその支持基盤(例

えば利益集団や社会的クリーヴィッジ)の関係、さらに支持基盤自体の解

体と再編の過程にも観察できる。国内政治をめぐる変動については別稿を

一一六

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 39

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る。

ここで「第二の近代」における国民国家の変容についてまとめておこう。

第一の近代において「再埋め込み」された国民国家という政治共同体は、

現在「脱埋め込み」されることで、統治性(主権・生権力)と政治的主体の

在り方が大きく変容している。統治性は脱国家化し、国家は主権や生権力

の唯一の結節点ではなく、社会を統制する「アルキメデスの点」ではない、

という事が可視化されつつある。その結果政治のアリーナは国際政治/国

内政治、公/私という近代の政治を規定してきた構造を揺らがせ、それを

越えて深化・拡大している。このような中で国民国家は「再埋め込み」に

よって確保してきた「時間的永続性」や「空間的限定性」を喪失し、それ

に代わって空間的規模でグローバル大に拡大し、構成において時間的柔軟

性を備えた政体が生成されつつある。それは主権・生権力という統治性を

つかさどる権力形態が時間と空間の両側面においてその性格を変え、また

政治主体と統治性の節合の在り方も変化している、という事でもある。国

民国家の完成形体を「総力戦体制」に見るのであれば、「第二の近代」の政

体においては、「新しい戦争」や「世界内戦」における主権はもはや「国民

総動員」を要請せず、また新自由主義経済体制にみられるように生権力も、

「国民」全体の福祉を要請しない。主権と結合した形で「(自国民を)生きさ

せる」要請は減じるのである。フーコーの比喩にならえば、世界内戦や新

自由主義経済の時代においては、一部にのみ「利用」可能な「適度に飼育

され調整された」「家畜」が要請される、それ以外は「直接声を聞きとられ

ることも、誰かに代弁されることもなく」(サバルタン)「死へと廃棄」する

なり、ごく一部に対して「テロリスト」とレッテル張りをして「野獣」と

して「駆除」する事が要請されるのである。もはや主権と生権力、そして

政治的主体の結合関係は自明なものではなく、偶発的に乖離/結合を繰り

期すが、さしあたり山崎望2003「『後期近代』における政治の変容」『思想』

No.946を参照。

一一五

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)40

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K H0 9 1 Y 1 更新 5回 2 0 0 9 年1 0月 9 日 4 1頁

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返すものとなり、時間的柔軟性/空間的移動性に満ちた新たな統治性と政

治的主体を持つ政体は、時間的永続性/空間的限定性を持つ政治共同体と

対抗関係に入ることになる。この二つの政体像(政治共同体像)への分節化

は、相克するのみならず時には共振する。主権や生権力を関係概念として

把握するのであれば、それらが一定の時間、一定空間内に凝集化されるの

であれば、人々はそれを「実態的」な権力として認識する(19)だろう。それ

は政治的主体においても同様である。「再埋め込み」とはまさに、そのよう

な「たが」を永続的で絶対的に見せた擬制であった、と言えよう。「現実」

は、まさに両者の間に存在する。

「第二の近代」においては、国民国家のみならず、多様なアクターが離

合・集散しつつ、関係的かつ抗争的に主権や生権力、政治的主体が解体/

生成され、主権的・生権力的統治性の凝集体としてのガバメントは、分散

化された主権・生権力のネットワークの総合的な効果としてのガバナンス

へと道を譲り、政治的主体も国民だけが特権的位置をしめることもなく、

多元的な政治的主体がその影響力を発揮して相互に協調と敵対を繰り返

し、政治的主体自体も解体と生成、変容を続けていくことになる。ここで

本論における二つめの大きな課題への検討に移らなければならない。上述

したように時間的柔軟性・空間的移動性に富む「第二の近代」の政体にお

いて、揺らぎの中にある政治的主体と、「ガバナンス」へと重点が移行した

統治性の範囲や期間は構造的に乖離をはらむものへと変化する。

では、「第二の近代」において民主主義はいかなる形態をとるのであろう

か。またいかなる形態の民主主義が規範的に望ましく、またそれは来るべ

き世界秩序の形成に寄与することが可能なのであろうか。現代の民主主義

に課せられた課題とは何か。以下、検討していきたい。

(19) 本稿は度々組織論として二項対立モデルとして描かれる「ツリーとリ

ゾーム」、「クモとヒトデ」、「中央集権と自律分散」などの対概念の止揚を

試みる構想でもある。

一一四

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎) 41

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K H0 9 1 Y 1 更新 5回 2 0 0 9 年1 0月 9 日 4 2頁

N081718 駒澤法学9-1

本稿は、平成21年度科学研究費補助金(若手研究B「「帝国」における民主

主義の変容-欧州の思想的配置から」)、平成21年度科学研究費補助金(基盤研

究B「市民社会論と立憲主義」代表者:中野勝郎(法政大学))及び(基盤研究

B「人間、国民、市民 市民社会、ナショナリズム、グローバリズムと新し

い政治理論」代表者:岡本仁宏(関西学院大))による成果である。

※文献は論文末に一括して掲載。

一一三

世界秩序の構造変動と来るべき民主主義 ⑴(山崎)42